テキスト1971
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し‘,0 .. ら.. から、その作品はほとんど掲色の焼しめに統一されている、ということ。それが備前焼の特長であり、またその赤掲色、又は沈んだ青色の中に特有のわび、さびの味わいがあるというのが備前焼の主張である。したがつて、たとえば京都焼のような色彩美や、九谷焼のようなけんんさとは正反対の趣味にある陶器といえる。しかし、掲載の作品写真のように刷健な必じ、目然美の魅力そんな点については深いもち味をもつ陶器である。備前焼にも絵備前、彩色備前などといつて、江戸末期、明治初期に岡山の陶器としては新しい方法によって色彩陶器を試みられたことがあるようだが、やはり備前焼は土そのものの焼けた味わいに生命があり、この試験的な新しい作品は受け人れられることなく失敗に終ったとのことである。価前市の作家の集りである「陶友会」というのがあって、その会から出版されている「備訓焼とその魅力」という冊子がある備前焼はかまの炎の中で自然に出来てくる多彩な窯変(かまがわり」が魅力であって、そこに備前焼の芸術がある、という。ニ四0時閻余も炎の中で焼きしめた陶器は、原土である青掲色の鉄分の多い土を、自然釉がとけてガラス状になるまで焼きしめるのだから、。これによると、そこに巧まざる自然美の魅力ある作品が生れるのだろう。備前焼の土は、伊部町付近の水田の底から、冬季に掘り出されそれに海岸地方の土を混合して原土が作られる。これが備前焼の母だということである。ろくろ造りと手作りの二つの方法で造形され、かま入れして十日乃至二十日も焼きしめて、あの硬質の焼きものを作ることになる。全国の陶器の産地も多いが、どの地方の窯でも同じように「美術的な上焼きの壷を作る人」「人衆雑器を作る工業製品」の二つに分れているのは当然である。備前焼の場合には数十の作家があって、その作品は全く深い味わいのものを見ることができるのであって、窯変による色訓の変化、紅色と褐色の入り交った無釉の陶器と、焼成による自然美の魅力は全く愛桁の念をおぽえるもがの多私達、花を活けるものにとつては俊れた備前焼をみて感動をうけるのだが、また一面この陶器がほとんど視色闊の一色に統一されているところに、その特徴を認めると同時に、これは一っの分野を代表する陶器だという憾じを受けるのである。その反対側の色彩の美しい陶器、華麗な陶器(たとえば京都焼、九谷焼のように)を望むことも当然であって、人工美の陶器は虚飾だという仙前焼作家の考え方には、全面的に賛成できない点がある。伊部駅前から2キロほど岡山よりの山手にある「岡山県仙前駒芸センター」を訪問して、展示室で優れた作品の展示をみることができた。このページに批載したのは、そのうちの作品だがわいの中に厳しい伝統の技術と、視代に調和しようとする意欲のある作品であることが即解される。時代は常に急辿度でうつり変つて行く。褐色の無釉の陶器にもその辿形の上で新しい幽党のある作品を作り出すことが必要であろう。備前焼の持ち駒である「ヒダスキ」やザンギリ」などの古い技法にたよることは、価前焼の発屎に益するものではないと、つくづく感じたのであった。さて、一般的なお話であるのだが私逹が「価前焼」の花瓶に対するイメージは、茶掲色の浪い色の花瓶で形にも変化のない古風な花瓶である、という先入感がある。掲色だから浪いというのも誤った考え方で、実際、備前焼には俊れたものが多い。単的にいえば数千円程度の価前焼には平凡なものが大部分で十万円以上の作品にはたしかに真実の美を見ることができる、といった考え方は、いちばん早く備前焼を即解できる具休的な方法といえよう。またそれが価前焼の理解をさまたげている原因になっていると思う(C、D、E、)甫序な味⑬ R 7 ... ••

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