テキスト1971
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ふつ'•。9上代陶器を業とした一団、J)ぅJ吹きおろす野分きの風が風逍をつくつて、すすきの尾花を、片側町の街道の方へ杖びかせていた。九月のはじめの陽ざしもとぎれがちに低い害が、信楽盆地をおおうように垂れて、初秋に入ったとはいい心がらも残暑のむしr名い日でめった。顧田川の栢を渡つて国逆からそれると、道は東南のしがらき円へ向つて、いく曲りにも曲つて、太んたんとしたアスハルトの道が低い山の間古陶の爪しがらき専湊を白くつづいて、やがて人戸川にそうて車を走らせると、信楽の町も近づき、大津からは20キロも奥まった山間の陶器の町へ人つて行った。もに日本の陶器を代表する古い須恵いうのは上代に祝部土堺どさ)といつて、陶上を焼いていわ侶楽は九谷、丹波、備前などとと(すえ)つくりの引である。頒恵と(いわいえゆる陶堺(すえうつわもの)を作るその古い言葉なのだが、この信楽は聖武天呈の紫呑楽(しがらき)の宮のあった匝代(―二00年以前)奈良朝の頃から今日までの歴史をもつている古い陶郷ばのである。大戸川のほとりの町、9百汀にはじまったこの信楽陶器は、その付近にある無尽蔵の陶土を使つて、ことに山間の祁落のことであるから、焼成のためり木材も一ー干軽るに使うことがでと、冗関係もあって、仝<陶器づくりには日然の条件をそなえた土地で陶部(すえつくりべ)が盛んにべつたのも当然であろう。寮町時代に入って茶還が盛んになり、との信楽の巧まざる糸朴な陶器のもち味が、茶器として宜美されるようにばり、一方、実用陶器として秤壷、油壷、水がめ、こねばちの様會こ生活用具のための陶器が盛んに作られるようになった。つまり趣味的な上焼壷と、一般用途の並焼壺の二つに別れて作られたものであろう。桃山から江炉監代へかけて、茶壷の類にはすばらしい持ち味のものがらったが、化堺として残されたものは殆ど少いようである。信楽の土はさくい砂まじりの土で小石が混人されている椋ば荒い感じの閲土であった閲係から、こまかい仕'―-や優夫ば感しの界物には不適当でるゾ‘,11然、呼趣いある地じ素朴心味わい、といつ二ところにその雅立をみとめられ冗ものであろう。一古い信楽には上釉(うわぐすり)のエ火・9ばく、わずかに流しがけヅ釉楽ゃ白化粧をした程度のもいが多かった。これは先号に褐戟した「月波焼]の歴史と同様に、民芸的な'又用囮器の範囲であったといえるだろしかし、この永い歴史をもつ伯楽陶器はその馬代その時代によってその製昂を心るという努力を常ド考えて今日にまで続いてきたようでおる。直い文献によると、江戸い代に入つては、葉茶壷、せんべい壷の類を木泊川、淀川の船使を利用して、消貨地へ迎び出しているし、私逹の知つている範朋では、「しがらき火鉢』や「汽車土瓶」'ばど全国的に使用されていたのも、この信楽が産地である。いわゆる江州廂人の発脳性がこのやきものの甲へも没透しているのであろうか、宅用陶器への進出はめまぐるしいものがある。しかし信楽は伝統の優れた陶器の引であり、古い信楽には香り高い作品が作られていたことを息えば、今日においても古陶の味わい深い信楽の作品の作られることが望ましいと思うのである。政近、しがらき?心い閏工の人逹の間に、これに関心を深くして、伝統の信楽陶器バ訴叩尻い、iTしいクラフトデザイナーを壬字?入逹も多いようであるが、信楽陶硲の佃竹の'いから祈しい美術的・ば作品の八れることが望ましい。信楽3陶器を作る人の中|‘高知楽斎に、上山直万氏が有名である。ともに重厚な倍楽の作品を作る人であるが、これらの先虹半によって伝統C美術が伝えられることを、心から期待する次第である。私の家へ時として、信楽の若い人込が花堺や水盤をもつて訪れることがある。見て欲しい批判をして欲しい、というのだが、私の不勉強かも勾れないが、花を活けようと思う気持のおこる様れものが殆ど少ない。この写哀にあるように大伍仕郎はお手のものだが、美術的な陶芸に対しては今―つ惑欲が足りないのではないかと思う。ただ―つ面白いことは、京部の陶芸家のうちの優秀な人逹が、大作を作るとき、伯交へ行き作品を作るということがある。窯は信楽窯を利用するのだが、作品は京都の美術を作るということが現実に行なわれているのだが、この辺から信楽陶器の幻しい紹明が行杖われてもいいのではないかと、期待をもつ次第である。8 信楽(乍→真直"沢R 信楽の壷に活ける•••

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