テキスト1971
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よいといわれる。草花を紙に巻いて上方をひろくあけて水につけ、夜中に庭へ出しておく。朝とり出してみると花葉も活々として新鮮さをとりもどした様になつている。少し疲れた花を回復させるのに役立つ方法である。に、秋になると夜中の冷えびえとした空気の中に水蒸気が小滴となつて、夜があけると雨が降ったように路辺の草の葉がしつとりと露にぬれていることがある。秋から冬へかけて感じることだが、朝似のさす時閻になるとすぐ消えさつてしまう。「浅茅が原の露の夜に」などと歌われて人机のわびしさによくたとえられる。朝彫のかがやか●さと露にぬれた貧しい町の景色を描写した句もある。いずれにしても露という言葉はわびしさ、はかなさという感じによくたとえられる。がこれを現実的に考えてみると、秋から冬にかけて野原を歩くと、衣服のすそのぬれることは事実なのであるが、これは自然がおく露霜だけではなく、植物の汲水にも関係のあることなのである。植物は夕刻になつて陽が落ちる頃から吸水作用が多くなり、朝日の登るころまでたっぷりと土中から水分を吸いあげるのだが、それは草木の体中にゆきわたつて、その余分の水分を葉の上にまで吹き出す場合が多い。そして葉末から水分が垂れ落ちるということにもなる。夜中におく蕗もあるだろうが、また吸水のあま切り花を「夜露」にあてると水褐げのために「草木は雨露の恵み」という_言葉があるよう朝日のみわびしからざる露の路次誓子と、草葉の露という言葉がある。感傷的な言葉だ朝切り宵切りりの水が葉の上に浮き出しているという場合も大変多い。花を切るときは朝か夕の時間がよいというのは、露のことではなくて、植物の吸水したその時間を考えて切りとるのが目的なのである。「朝ぎり」「宵切り」などという恵門の用語のあるのもその意味をあらわしているのである。雨の日に花を切ると水捗げのためによくない。雨にぬれてたっぷりと水分に禍ち満ちている様にみえるのだが、これは外見のことであって、植物自体はべとべとにぬれて茎も築も自然の状態を越えて柔らかくなつており、耐久力のない弱々しい状態になつている。こんなとき、雨中で切った花は日持ちがよくない。だらりとした姿もよくないし、全体が雨にたたかれて弱つているのだから永持ちしないのが普通である。雨があがつてある時間を経過して、日ざしをうけてから切るのが常識である。風の日は植物が乾燥して、体中の水分はかさかさになっている。ちょうど洗濯ものが風でかわくのと同じように、こんな天候のとき花を切ると水楊げがわるい。要するに植物の吸水のいちばんよい時間に採収することがよいのだから、公天の日よりも、晴天の日の早朝又は夕刻に切るのがいちばんよいということになる。長雨のあとや、ひでりの長くつづいた頃の花は、花の色もあせてあわれである。雨に打たれつづけた花、ひでりのつづいた季節の花は、花に生彩がない。やはり適度のうるおいと太陽の光をうけないと、花の生育にも悪く、切り花としてもひきたたないし色もあせている。草木は雨露の恵み、といわれるが、同時に協の光を充分にうけた花、これが水掲げに影孵をもつことになる。花材オミナエシムベキク空色の同じ形の水盤を二つならべ,二つの盛花が結びあう様な気持で活けた。意匠的な化である。レンズの関係で左右の水監が傾くようにうつている。12

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