テキスト1971
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/,' `,j f・f ヽ') ヽ`. 3暉 'テレビで野球の放送やボクシングの放送の中で、解説者がときどき、これは、と思う名言をはくことがある。その解説者も無意識に話すことばだけれど、それには永年にわたってその追を研究し、実際をふんできた経験が、とつぜんと出る言葉であつて、聴くものにとつては中々おもしろい。7月28日夜の広島ー巨人戦の放送の中で、投手の一球が最後の蓮命を決するというとき、長谷川解説者が「意識すまいということは、意識することである」と話していたが、全、t.囀.. . 、:Jく同感と思うほど、その瞬間に適したよい言葉だった。キックボクシングの寺内大吉氏が沢村の努力を評していわく「まねるということと、学ぶということとは迩う」と放送中に話していたが、いずれも切迫した時間の中できく言葉であるだけに、反対に強く心に残っている。このごろ名僧学者の随筆説話のようなものが本になって出版されるが、このたぐいのものは名言をはくことが‘―つの商売になつているのだし、それを新聞などで広告して売らんかな、という考え自体がおかしいと忍うのである。そんな点‘―つの道に徹した人から遇然にきく言葉には而白いものが多い。そんなことから私達のいけばなをふりかえつてみて、私も売らんかなでない名言をお話してみようと思つのです。長谷川解説者の「意識すまいということは、意識することである」という言葉は、これを所をかえれば「もうけようとすれば、中々もうかるものではない」という、教訓にもつながることだと思うし、これを芸術や芸能(いやな言葉だが)の世界へもつてきても、そのまま通じる言葉でもある。私達が花を活ける場合、上手に活けようと思っと、かえつてうまく活けられない場合がある。必ずよい作品を作らねばならない、と意識すればいよいよ結果が悪くなったという場合も多い。意識することはみずからが自分の心に―つの責任を課すことである。甚だしい例をいくつもみているのだが、自分の活ける花が思うようにならないと、みつめる花そのものが美しくなくなるし、極端なときは花そのものが憎らしくなる場合もある。花展の出品の場合など、どうしても自分の作品をよくしたいと思うあまり、時間を永くかけすぎて花の新廂人への鮮さはなくなり、活ける人の身体も心も疲労してしまつて、その疲労はそのまま作品にのりうつつて、なんとなく疲れはてた作品となつてしまうことは、たびたび経験することである。つまり、よい花を活けることは望ましいことだし、また、そうでなければならないのだが、それを意識して花に向うことはよくないことである。もう一っ進めていえば意識することはよい作品が入らない、といつても過言でない。ですから「意識すまいということは、意識することである」という、それを警戒して事にあたつても、その普戒すること自体が、すでに意識することである、という極限の言葉が生れることになる。花を活けるときは、その花を楽しみながら、花の自然の美しさをそのまま心にうけ入れるような、ひろやかな心をもつて、活けはじめから活け終るまで、虚心の体度をとらないと、一生けんめいは、まず失敗率が多いということになる。いけばなの場合は、特別な例をのぞいて、必ず相手が自然の花や木、活きた植物である。花を切った場合にはある時間内は新鮮であるけれど、それをいけばなにする場合に、その扱い方や長時間にわたるときは、それに比例して材料がいたんで行くことを常に考えたいと息う。ュ¢” 専渓d と會直、'、ず.' っゞ4 3 無意識の意識しばぐり白百合) 12 ・ク、) ヽ_,..... ー

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