テキスト1971
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松江る忍いがするのである。石川丈山は徳川家康に仕えて大阪夏の陣には武勲をたてた武士の家柄であったが、かたわら国学漠学の造詣が深く書道に秀でて、書家としても本邦中国にならぶものがない、といわれたほどの能書家であった。晩年の三十年をこの土地に草庵をむすんで住み、学問と風雅の生活をおくったといわれている。京都の町から遠くはなれた、そのころの一乗寺に詩仙堂をつくつて幽雅な晩年をおくったのだが、今日みるこの丈山の旧居は、北山の幽達を自然の背景として、建築の美と庭園の雅趣がよく調和して、京洛の名園の中でも、心ひかれる境地である。詩仙堂の庭には四季を通じて雅趣のある野草の花が咲いている。有名な白花のさざんかの大樹や、秋の深いころは楓の紅葉が実に美しい。夏にはさんばくそう、なでしこ、すいれん、こうほね、かんぞう、かのこそう、山百合の類、あじさい、きっねのかみそり、春の草花、秋の草花などが、つつじのおおかりこみの間に色をそえて、つくばえC石のきわや小川の流れにそうて、四季たえず花がみられるのも楽しく風雅である。庭の一隅に添水(そうず)といつて流水をうけて音を立て、鹿を逐う工夫のあるのも、実用的でしかも雅趣燐かなものがあって有名である。出雲というと、まず縁結びの本家出害の大社、宍追湖に面する松江市と松江大橋、小泉八雲の旧居、松平不味の残した菅田庵、女優の元祖いわゆるお国歌舞伎の出生地、それに名物安来節といったところである。山陰随一の都市だといわれるのだが名勝としてみるべきものがほとんど少い。この春、宮島厳島神社の奉納能楽を終つて、倉敷から伯備線にのったのは四月十七日だった。桜も終りのころだったが、森梁川にそうて米子に向う列車の沿線には、山手のおそ桜の満開のところもあり、高梁市から新見市を行く川ぞいの道は、よほど以前に流儀の人達と一緒に、万年青の野生地を見学に行った、息い出の迎であった。米子市へ近づくと列車の右の窓に見えていた雪の白山が、左の窓の後方に遠ざかつてみえるようになり、やがて米子から松江まではまもなくであった。ぉっとりとした小都市の松江だったが、私の期待が大きかっただけに、案外、平凡なこの小都市は見るべきものも少く、遠来の私をがつかりさせたのだった。松平氏の城下町十八万六千石というのだが、わずかに不味公の残した菅lfl庵と小泉八毒の旧居を見学しただけだった。小泉八雲In藩士小泉家の娘節子と結婚、名も小泉八雲の旧居は松江城の襄手のお壕ばたに面した、塩見縄手というところにある。八雲はイギリス人を父、ギリシャ人を母とする本名、ラフカディオ・ハーンといい、明治23年来日、日本を深く愛した文学者で小泉八雲とかえて、その後日本に帰化、松江中学、五高、東大、早大において英語、英文学を講じたが、その問、日本に函する著述が多く日本をひろく紹介したことで有名である。写真にあるように、武家づくりの旧家を借りうけて生活したのだが、三方庭にかこまれた三間つづきのこの邸で八雲は「知られざる日本の面影」などを書いたといわれる。相当古い家で、現在はかなり荒れているが、京都の詩仙堂の風雅と趣味の生活がうかがわれるのに対して、八雲の住居は素朴であり学究のてらいのない生活振りが感じられる。山口県萩市に安政三年ひらかれた吉田松陰の松下村塾とその家屋の構造が似通ったところもあるし、また先年、岡山市の国学者であり社会事業家でもあった石井十次の旧邸を拝見したことがあったが、いずれも江戸時代末期から明治年代へかけての家屋構造(いずれも生活のための能率的な構造である。)をみて、教えられるところが多かった。採光の点についてもよく注意されているところ、示唆をうけることが多い。11 小泉八雲旧居

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