テキスト1971
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専渓ろはまだ、いけばなの仕事も休業状態だったので、この機会を利用して山の花をしらべてみようと、とにかく手近かの関西地方の山々を廻り歩いたのだった。一週間に2回程度、その日がえりの山あるきをやったのだが、山を歩く習恨がつくとその魅力にとらわれて、私ただひとり、山男の様になつて歩終戦直後の昭和21年ごろ、そのこ21年22年を通していたものだったが、それはまとこに楽しいものだったし、山の花、野の花の習性を知ることができ、その後の私のいけばなにプラスするところが多かった。主としていけばな材料に使えるもの、またこれまでに山の材料を使っているものの、自然野生の状態をしらべることが目的だったので、植物の研究とは少し方向の違った調査ということのできるものだ25年後の今日、とり出して読んでみった。一応、活けられる程度の分量を切つて帰つて、帰宅後「植物図鑑」と照合して、その日時、場所などを記録して、この記録がやがて二冊の手造りの本となつて、今、私の手許にある。日記の形式になつているので「山の花」「川の花」と表紙に題をつけて書きつづけていったのだが、ると、その頃の状景が思いかえされてなつかしい。7月19日(昭和21年)「京都駅にて奈良電に乗る。西大寺かしわら神宮駅経由、大和下市に下車する。川戸行きのバスに乗つて細い下市の町を大型のバスが両側の通りの家の軒先をすれすれに走つて行ある。二十オごろ誘われて大峯登をしたことがあった、すげの笠にかんまんという法衣を着て、白のきやはん、わらじばきという行者姿で、十人程の講中の中に入って大峯参詣に出かけたものだった。その頃はバスの便もなく、下市から歩き出して、一日の行程が約八里、第一日は洞川(どろがわ)泊りだった。その道すがら山を越えて谷底の街道を歩いて行ったのだが、迎にそうて狭い川がありその両側は見上げる様な高い山。その山すそから頂上へかけて段々畑が幾十層の横線をひいて、田畑が耕作されている。この辺の農家は<゜ 私が下市の町を通るのは二度目で随分労力のいるものとしみじみと感じたものだった。下市から山を越して谷へ降りると「大杉」その次が「長谷」の村、この辺へくると「タメトモユリ」が沿道の土ぽこりにまみれて、数多く咲いている。蛇ケ谷で道は分れて右へ行けば洞川へ五出、左の道の川戸へは一里である。高原の道を歩いて行くとこの辺は薬草栽培の本場らしく、それらしい畑がつづいている。街道から少し横道に入ってみるとタメトモユリが群落になつて咲いているところもあり、高さ3メーターにも及ぶ太い茎の百合は、輪ほども大輪の花をつけて見事である。すべて野生で採集も自由なのだが、それに交つて鬼百合の朱色の花、姥百合(ウバユリ)の花はにぶい白緑色の花が木蔭に咲いている。姥百合の咲いたものは花屋では見ることができないのだが、ここへきて初めて、渋くしづかな感じの花を見ることができた。」年若いころに歩いた大峯への道が思い出されて、戦後早々の二十一年の夏、ふたたびこの道を私ひとり、歩いて行ったのだが、かんぼくの間を分け入って百合の花の鮮かに咲いた美しさに、ただうつとりとしていると、くさむらから(まむし)が首を立ててにらみつけている、といつたこともあった。みずみずしい山の花は私にとつてたまらない魅力であった。1本で20山. ためともゆり黄花すかしゆり器・民芸の火入れ(火を持ち運ぶ容器)しまがや12 •••

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