テキスト1970
83/136

ーE専渓じめて岡山へ行ったのは、学校の修学旅行で、例の如く形式的な見学をすませたのだが、花遥のために流儀の皆さんとお会いしたのは二十オごろの春の直門会のときであったと思う。それから、今日まで随分永い期問だったが、直門会やいろいろの用務のために訪れることも多く、いつしか通いなれた道となったが、いつもあわただしい時間をすごすだけで、今以つてほんとの岡山県人になれないのを残念に思っている。その中で食敷は私の第二の故郷である。はいちばん私に深い印象をもたらせてくれたのは倉敷の町と、高梁川(たかはしがわ)の自然である。このごろ、月に一度は東京への用事があって新幹線に乗るのだが、多磨川の六郷橋を渡ると、川崎から都内へ入った感じが、なんとなくあわただしく心に伝つてきて、しゃんとした気持ちになる。これと同じ様に岡山の旭川を渡つて岡山市に入ると、私達の流儀の伝統がひとしお身にしみて心が引きしまる思いがするのである。まことに都会の川というものは、その土地の歴史と生活に深い関係をもつものだが、ことに、自分の郷土の川というものは、いよいよなつかしく、美しいおもい出をもつものである。高梁川の霞橋を渡ったのは、倉敷から船穂町のいけばな会の会場へ行く遊すがらであった。大分古い話だけれど、まだその頃は船穂栢がなくて、どうしても懇稿を渡つて大廻りに廻つて行くのが道順らしく、かなり風の強い日であったが、四町ほどもある長い橋を横なぎの風に押されながら、10人ばかりの人達とひとかたまりになつて渡ったことがあった。そのころは、東側の河川敷の上は木橋に土を盛った2メーター程度の土橋で、らんかんのない危うげな橘だった。流れのある部分に低い木のらんかんがあつて、広い川はばに細い橋を渡つて川向うまで歩くのは大変だったし、霞栢とはよくぞ名附けたものと感じたものである。大体、このころまでの大川の栢というものは、出水の時には流れるものときまつていた様に、簡単な渡り橋をかけて幾度となくかけかえるのが、その時代の常識であったらしい。それと同じ意味で、京都の加茂川に葵栢(あおいばし)というのがあって、明治の末ごろまでは粗末な木橋をかけ、流れるたびごとにかけかえたと、その土地の古老の人にきいた川の中ほどから西よりのことがあった。強い風の日は自転車ごと吹きとばされて、川原の深い砂地に落ちこんでも、大した怪我はなかったという昔の霰橋も、今は堂々とした近代栢となつて、自動車の交通整理が大変だという。さて、高梁川は中国一の大河といわれるだけあって、私の様な京都人が日頃みなれている京都の川のイメージとは、かけはなれた感じのする川である。京都市を流れる加茂川は北山の山間部から発して、京都市の中央まで15キロ程度で、渓流の性格のままで、四条五条の辺りを流れており、いわゆる水清く加茂のせせらぎをきくことのできるといわれる谷の水である。高梁川は鳥取県の県災から、えんえん八十キロを悠々と流れて、いくつもの河川と合流して水島灘に至る大河である。倉敷市清音の東岸に立つてながめてみると、対岸ははるかに迪く、川中局を向うに酒津方面を望むことができる。雄大な感じは大陸の大河をみる梯な思いがする。私は清音村黒田といったころ、(伯備線のない頃だが)このきり立った崖に立つて、はるかの下に流れる高梁川をみて、これも日本の川かと思ったほどであった。はば広い塊防には緑の草原があって、まつ白の山羊が放牧されておりひとしおのどけさを感じる。西阿知次。ヘージへ倉敷.... (倉敷川の中橋)倉敷にはいろいろの顔がある。伝統の町,民芸の町観光の町,農業の集散地,たたみ表の町,大工業の新興都市,そして古いものと新しいものとが一緒になつて,年ごとにのびて行く都市である。

元のページ  ../index.html#83

このブックを見る