テキスト1970
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もう50年も以前のお話ですから、随分ふるいお話です。大正10年頃だったと思いますが、ちょうど私の父の晩年のころで、朝鮮(韓国)の京城市にあった外人公園の中の、ある会館で「日本文化に関する展覧会」のようなものが催されたことがあったのです。外人公園というのは、欧米諸国の植民地によくあったもので、その占領地又は租借地などで、その国の土着民と区別して、欧米人だけしか入れない公園というものを作っておつたのです。祉服者の優越意識をあらわした政策だったのです。明治初年の日本でも、昭和20年以後、いわゆる終戦後でもこれによく似たことがありました。さて、その京城の展既会の会場に日本の伝統いけばなを展示するために、父も代表として招待されたらしいのですが、日本文化の紹介だというので、父も大変意気ごんでいたようでしたが、そのとき、まだ中学生であった私も、手伝いかたがた、こんな機会に朝鮮を見ておくのもよいということで、連れていつてもらったのです。学校へは特別に諒解してもらって専渓とにかく京城から平堀、釣南油までと数日の旅行をしたことがありました。京城の壮麗な古い宮殿を見たり平壌市内のごたごたとした町並みの風景や、中央に城門があつて、その前後の街路には白い朝鮮服を着た沢山の人逹が群つており、街適で店をひろげたいろいろなたべもの屋台で飲食をしていたのも、ただ珍らしい風景でしたし、日清戦争の古戦場でぁった「玄武門」や「乙密台」などの城門楼閣をみて、日本の兵隊はこんなに強いのだなあ、と感激したものでしたが、これはただ異境の土地で歴史に感動する誰れしもの感じるあの程度のものだったのです。仲秋の月の美しい大同江の川ぶちを歩きましたが、はるかに見おろす谷川を流れて行く舟から、朝鮮特有の哀調の笛の音をきいたのも、忘れることのできない印象でした。その夜は平壌の旅館に泊りました。もちろん日本式の旅館でしたがその翌日ははればれとしたよいお天気でした。とにかく折角、朝鮮の奥地まで来たのだから、せめては大同江の阿う岸の鋲南浦まで行ってみようということになつて、そのころ内地にはなかった広軌の汽車に乗りました。朝鮮の鉄道は満洲の鉄道との連結もあつて、政策上、線路もはば広い広軌になつていたのです。鉛南油は平安道西南郡の地町でして、只今では五万程度の市になつているということですが、そのころはまことにわびしい村落でした。大同江の北岸にそうた附で、小さい駅というよりも停留所といったほうが似つかわしいほどの、さむざむとした駅でした。白い朝鮮服のと人と私どもと三名の乗客が、雑草のいちめんに茂った駅におり立ったときは、十月なかばの荒涼とした風の中のわびしさに、なんとなく不安を感じたものでしした。その中に一本の白い迅が辿<までつづいていて、そのはるか向うに村落があるのに迩いありませんがそこからは見えないのです。駅の前に一軒だけ物を売る店がありました。トタン屋根のひらや建ての小屋でしたが、日用品から汽車の切符まで売る便利屋でした。なぜ、こんな淋しい小駅に降りたのか私にはわかりませんでしたが、やがて、その店屋に入って、ごたごたとした向品の棚の隅に、粗末な花堺に活けてあったいけばなをみたとき、なんとなくわかるような気持ちがしてきたのです。その店の女主人は洒井某という人でしたが、突然の知人の訪問をどれほど整いたことでしよう。この人は父の門人でした。十数年以前、京都の名流の家庭に肯った人でしたが、家業の破綻からいつしか音信を断つようになりました。なんとなく上品な美しい人でしたが、子供の私でさえそのころを知つている人であったのです。それにしても、北朝鮮のこのわびしい町に、雑草の中に生活するこの人をみて、わびしさとなつかしさに胸がふさがるような思いをしたものでした。その後のいろいろな話をききましたが、それは人生流転の悲しみに満ちたものでした。ただ、その中に、昔をなつかしみ、ただ―つの慰めになるものは花を活けることだと、話しながらも、あまりにも意外な避追に心の落ちつきを失っているようにみえました。下関から関釜連絡船に乗り、釜山から十数時閤の北朝鮮のこの小駅で出会ったものは、実にドラマチックな「再会」でした。美しく咲く花の中にも悲しみも、のです。その後、この人はどうしたことでしよう。音信もすつかり絶えて、やがてその時間は歴史の中に埋没してしまった、ということになります。人生は年のたつにつれて、変転してゆくものですが、自分の知人のわびしい便りをきくよりも、かつての知人が予期以上の成功している便りを知るのはわが身のことの様に息えて姶しいものです。そのころ、私の家へいつも出入りしていた「人力車帳場」に吉田という店がありました。人力車というのは、大正年代まであった交通機関でわびしさもあるもtこ 荷。車に花を満叔して花炭会場へ連二輪恥に客をのせて定る車で、その車夫のたまり楊が帳場なのです。私の家は車の注文も、お使いごとやらいろいろの手伝い仕半まで、この吉田というのに頼んでいましたが、この家の息子に安造という、その当時京都の師範学校に入っていた子供がありました。学校の成績がすばらしくよく出米て、その勉強の余蝦におやじさんと一紹に手伝いに米てくれたのでした。今でいうアルバイトというわけで、その頃はこんな学/を「舌学生」といつて、一般からは同伯と侮蔑の目でみられたものでしんだり、父の杭古先へ材料を運んだりするのが、アルバイトの目的でしたが、やがて、学校を卒業して小学校の教且となり、京部1内の学校を転々とうつりかわっているうちに、ついにある小学校の校長に栄進、祝在は京都市内の名校長として有名なのです。永い年間の努力だと思いますが、そのはじめを知つている私として、誰れよりも深い匹5敬を感じるのです。永い花道の仕活の中には、悲しいこと、始しいこと、111心い出のお話がかずかぎりなくあります。また折りをみてお話したいと息つています。お話に封が入ってしまつて、すつかりお茶が冷えてしまいましたね、... fこ 駅。の附近は一めのん雑芽の野原で浦ぽ12 鎖え南乞

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