テキスト1970
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どこの都市でも同じことだが、京都市も最近はいよいよ膨脹して、近郷近在といわれた農村山村も段々と都会化され、昔のおもかげをすつかり変えるようになった。京都の北山八瀕大原、西山の高雄、梅が畑、限が峰など、それぞれ古い歴史と由緒があつて、全国的に有名である。梅が畑の「はたのうば」北山の「おはらめ」らかわめ」その他、京都近くの農村の女どもが、その土地の売りものを背負つて市中を売り歩いたのも、今はほとんど姿をみることもなく、北日のおもい出となった。大原、梅が畑、白川の三つは、花に関係の深いところで、それも最近は段々、影がうすくなった様だが、ちょうど二月、三月の頃となって、山の木の芽が出はじめるようになると、大原の女逹が、黒もぢからはじまつて、山つつじ、しゃくなげ、はたうこん、などの山の材料を、一束五、六貫目の大きな荷物に作って、車に山桔にして高野街道を町へ下つて行く姿が印象的だった。雪のあるころは、朝早い時間に北山の名残りの雪を荷の上に白くのせ、北白川の「し専渓て、市内まで黒もじ、やぶこうじなどと一緒にひいてきたものだったが。また、例の「はしごやくらかけ、いりまへんかあ」と流してある<商雄梅が畑の「はたのおば」。これははたの姥とはいわないで、私どもは「はたのおば」といつていたが、この女どもは夕硲れのあわただしい頃に、いつも二、三人づつ組んで、頭にはしどをいただき、手に鞍掛(<らかけ)をもつて、町の中をのどかな売り声で流してあるく。紺がすりのもんぺをゆったりとはいて、型の如く頭には白木綿の手拭い、その上にわらで作ったまるい台座の様なものを頭にのせ、四、五メーターのはしごをのせて、ゆったりと売り歩く。この梅が畑から山の木ものを採集して、町の花屋へ運ぶおばさん達もあったし、生花に使う「くばり木」は、この梅が畑から私どもの家へ運んでくれたものであった。百本入り一束五十銭ごろの話である。東山は比叡山の下、北白川の白川女(しらかわめ)、それから白川の山道を一里ほど登った山間の村「山中」、今は池賀県山中町ということになつている。この山中からも「立花」の材料に使う松の幹、つげ、あせびなどを運んでくれるおばさん達があった。長さ五、六メーターの長く太い直線の松のみき、これを立花の中心に使う。その他、直径2、3センチの細いみきまで、若松の葉つきの真や、つげの大束などといつしよに、低い手先車(てさきぐるま)に積んで山道を下つて運んできてくれた。(細い幹を、らをみきといつていた)これらはいずれも村の女どもで、男はほとんどやつてこない。時として夫婦でくることがあっても、取引きの主役はすべて奥さんまかせで、おやじは車に腰をおろして煙草を吸つて待つているという、まことに女性上位の在所であった。北白川は「花や番茶はいりまへんかあ」という、あの有名な売り声のその村である。今は左京区北白川となっているが、花売りと石屋が商売の堅実な営業政策をもった村であった。おやじゃ息チは石屋で石灯篭や石烙をきざむ商売、おばさんや娘達は、紺かすりの三巾前垂(みはばまえだれ)に白木綿の手甲(てつこう)きやはんのいでたちで、頭に花篭をのせ、それに花を入れて京都の町へ光り歩く。もちろん番茶も一しよである。「花や番茶はいりまへんかあ」と、のどかなふしまわしで、のんびりと売り歩く。番茶は宇治の茶園で刈り込んだものを、それぞれの家で炉にかけて番茶に作り、花は村の街道の裏畑で栽培の草花や、この町におばさん達へ専門の花市場があって、大阪の梅田や天王寺辺りの花市均間屋から、紺日トラックで送り荷があり、おばさん達が数十人も集つてせり市で商品を仕入れるという状況だった。最近、白川の花売り女というのは、すつかり姿をみることもなくなつて、観光用のショウに白川女、小原女などが出演するようになっている。近年、京都の時代祭の行列の中に、白川女の花売り姿や小原女の柴売姿も参加しており、また、写真の撮影会のモデルとして出浪するという、まことに時代が変れば変るものと今背の感にたえない次第である。戦前のころ、北白川の天神宮の畔に河根病院という外科の先生があって、岡山県の人だが大変趣味の広い先生で、そのころいけばなを私が出稽古をして、河根御夫妻やその附近の娘さん達を教えたことがあった。まだ、白川も石屋と花売りの時代だったが、偶然にも「この白川女」をお祭りの様に行列を組んで、デモンストレーションをすれば、随分、観光宣伝にもなつて面白いだろう、と私が思いつきで話したことがあつたが、やがて年が経過して、その時の私の考えたことと同じ様なことが現実となったので、私も驚いている次第である。とにかく、このごろは、小原女も、はたのおばも、白川女も、町へはすつかり姿をみせない様になった。ある時代には、大阪辺まで小原女姿の物売り女が省線電車で通つているのを見かけたが、とにかく、府魂たくましい「京のいなかの女逹」ということができる。さて、このごろは、北山や西山のお寺に観光の人逹が押しよせて、か院の方も杯観料をとり、中には粕進料理を麻う寺もあって、年ごとに静寂幽清な慇じがなくなってきた。大原の寂光院も拝観料をとる様になってから、なお一層参観の人が多くなった様だが、戦前は参打者も少なく、朴秋の季節のよいころでもひつそりとして、大原御幸の旧蹟をしのぶのにふさわしい静けさがあった。私逹、謡曲を楽しむものが数人集つて寂光院を訪れ、やぷ椿の落花の菫なる磁路を歩いて、庵主の尼僧にごあいさつをして、お座敷で持参の謡曲本「大原御幸」をひろげて、その一曲を問う。終りにその本をお寿に奉納して婦るという、まことに風雅なひとときを味わうことができたのは、随分以前のことであった。沖礼門院の屈栖の古跡も、今はあまりにもさわがしくなつて、往時の清寂の環境がなつかしく感じられる。四月の末には残りのおそ桜が庭に咲き、附近の山にはシャクナゲの花が色づきはじめる。渓流のやまぶきの花、小高い丘にはハタウコンの花が咲き、緑の葉の中の黄色の花の群りが私達をひきよせるのである。... ... .... . 12. 大ぉ原閉女め

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