テキスト1970
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12月のはじめ、ひえびえとした冬の雨のふる日、京都の西山の竹林の写真をとるために、写真の小西氏と二人で、嵯峨から塩岡への道、老の坂(おいのさか)の方面へ行くことになった。直い雨雲が低くたれて、まだ午後3時というのに、なんとなく小陪<Fl西呑れの様な景色だったが、おむろ嵯峨からさらに深く入って、いわゆる奥嵯峨の間指庵(じきしあん)に目標をつけて車を走らせたのだった。この付近には、去来の落柿舎、祇王祇女で有名な祇王寺、化野(あだしの)の念仏寺など、古い昔の物語にあろ伝説の土地でもあるのだが、私達の今Hは、街道に続く竹むら竹ばやしの風景に、ただ美しい写真をとることに注意を向けていた。とぎれとぎれの家の間につづく小路を、いくまがりにも曲つて、奥嵯峨といわれる山ぞいの奥に、直指庵(じきしあん)を訪れた。日ごろは遊覧の人達がつづくこのあたりも、小雨の降る今日は人蔭もなく、すでに暗くなった竹薮の道はなんとなく、な感じにとざされていた。この辺りには竹林が多い。京都の西郊の村から低い丘へかけて、西山といわれる辺りは竹の名所であって嵯峨より西芳寺、長岡へかけてことに竹林が多い。長岡京の古蹟でもあり、その昔、帰化の中国人の古墳の陰鬱上に植えられた竹が繁殖して、今日の竹の里となったものと伝えられているのだが、市内から西山を見ると竹の丘が延々とつづいて、静かな山すその景観を作っている。三鈷寺(さんこじ)へ尾根の古道という旬は、この西山の景観をのべた句であろう。直指庵の竹林の写真をとった時は横なぐりの風が吹き、辺りは陪くな専渓つて、これで写真が写るのかと思ったが、小西氏には自信があるらしくここで10枚ばかり撮つて、早速車にとびのつて、大原野から亀国への国道を走らせた。京都市の五条通を西へ向つて行きつくと、亀岡への国道に入り、郊外へ出て老の坂に至る。私どもは大阪府下の箕面や池田方面へ、いけばな材料をさがしに行くときは、表道の京阪国道へ出ず、裏側にあたる老の坂越えから池田への道へ行くのだがこの老の坂は天正10年、明智光秀が丹波亀岡城を出て、京都本能寺に軍勢をすすめ、織田信長を討った際に通過した歴史の道である。掲載写真のうち、10ページの2枚11ページの2枚は老の坂峠の写真である。老の坂は山陰へ向う国道であり、今日では自動車の往来輻饒する道路(A.B)は、嵯峨直指庵の竹林でとなつているのだが、この道が五〇0年以前に「本能寺の変」への歴史の道であったのかと思うと、全く今昔の感が深い。老の坂の時には、春には桜並木の花が咲き、京都周辺の国道の中でもことに情緒の深い道路なのだが、私達はこの峠道のかかりに車をとめて写真をとることにした。ここには新道と旧道があるのだが、交通のはげしい新道の両側にある竹薮を、何力R 竹の秋三余R 洛西の竹林10

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