テキスト1970
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← → 白椿一種を壷に活ける。自然風な枝振りが風雅である。二管筒の生花である。はしばみの木と白椿2種。下の花形は8、上の形は2の比率である。.. からrI吟トの代になってからがどうもよ器でも軽く寸法をあたって、ずんずんばつさりと切つて、それが少しも狂いのないほど気持ちのいいものでぁった。立ててみると狂いなくまつすぐに立ち、切り息にざっと切るのだから切り口にとまどいもなく美しいのは当然なのだが、手錬の早わざというのか永年のかんというのか、実に見事であった。廂長というからには当然なことだと思っていたのだが、亡くなってかくない。まつすぐに竹が切れないのである。竹の花器ーを立ててみると少し傾くし、足もとの安定が悪い。切り方が正しくないからである。私の先代から恐らく七、八十年も買いつづけている竹屋なので、今さらやめることも気持ちが悪いので、なんとかそのうちに上手に切つてくれないものかと辛抱しているのだが、永い年間にわたって修練する技術とか、んとかいうものは理論や数字では割り切れないものがあつて、練達という一言葉でいわれるはだ身にしつくりしみとおったわざというものがあるものである。いけばなの場合も、これと同じようなことがいえる。といつても、さきの話は、商売の話であって、こちらは趣味のことだから、ごっちゃにしてもらっては困る。といわないでまず話をおききなさい。よく似た話だけれど、いけばなではくろうとだといわれる人ほど、枝葉を切るその切りかたが美しい。はさみ、のこぎり、その他のきれものも、日頃から.. .. も美しい。ひとよく手入れしてあるし、切る場合でも一気にずばりと切る。ためらいのある切り方ではない。したがつて切り口が美しいということになる。いけばなの技術もまだ充分でないという程度の人は、することがどうもにぶい。確信がないということによるものだろうが、さきほどの竹屋の話といつしよで、鍛練が充分できてないから手許もはつきりしないのだろうが、枝の選択から、技術に入るまで、ことに枝を切り、枝葉をはらう動作まで、なんとなく幼稚なところがあって、見ていてもはつきりしない。極端にいえば、切り口のにぶい様な技巧は花がうまくないあらわれだといつてよいほど、花の切り口は大切なものである。ことに、花を活けるときだけでなく、花瓶より抜いたとき、実に見苦しい。花を花瓶より抜くときは捨てるときだから、どうでもよいと忍うのが普通かも知れないが、花器の中まで、すつきりとした技巧がつくしてあるいけばなは、上手達者の人のすることであって、いけばばに熱意のない人、四いはじめの稽古時代の人は、そこまで心のゆとりのないのは当然であろが、貢実のいけばな人というものは、こんな点にも注意が要るものだということを知つてもらいたいものである。竹屋の話が変にまわり廻った話となったけれど、技術の仕事には表血にみえる砲やかなものよりも、瓶礎の技法が大切だということを考えてみたいものと思う。(専)花か生虹2 作グ□,.... ....

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