テキスト1970
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新年には餅をうすく丸く切つて彩色したものを、柳の枝につけ、これを神棚にお供えする習慣がある。「餅花」または「花餅」といつて、東京の目黒不動参詣のみやげものとして有名であるが、古い京都の伝統行事の中でも、この餅花を飾る習慣があるが、今日ではほとんど行なわれることが少ない。花という言葉は、美しく咲く花という意味のほかに、その優雅さや、さく花の一番見事な咲きごろを賞美して、たとえば「花ざくら」「花たちばな」「花あやめ」という言葉があるように、昔からその花を一層やさしく美しく表現する雅言がある。花はす、花すすきなど、また「花の都を立ち出でて」と京都を花と見立てた謡曲「蝉丸」せみまる、の歌章、また「花がたみ」という美しい言葉があるが、これは贈りものに使う花を盛った花篭のこと、平安朝のころ、宮中の「七夕会」たなばたえに花を奉るのに、七種の草花を檀紙で包み、水引きで扇形に装飾したの専渓を「花扇」はなおおぎ、ととなえたが、これからさらに、その頃の贈り花を炭斗の形の紙に包み、水引きをかけた「花づつみ」という形式に延長したようである。花暦(はなこよみ)花筏(はないかだ)花吹雪(はなふぶき)花暴(はなぐもり)まで、段々と現実に近い言葉を使うようになったが、どの場合も花という文字を頭につけると、なんとなく華やかであり、風雅を感じ、ある場合は艶(なまめき)を感じる場合もある。平安朝のころ冠に花を挿して身辺の装飾としたことが物語にみえるのだが、これを「かざしの花」といいその後、女人の髪かざりにする飾りものを「かんざし」ということになったが、これはこのかざしの花からきた言葉であろうと思う。衣服にしのばせる匂袋(においふくろ)腰さげの匂袋などを昔は「花袋」といつたようである。花やか、花やぎ(美しく粧う)(華やかな心ばえ)など、人の心すがたの形容詞にも用いられ、これが段々と現代的に使われるようになると、英字の頭文字を「花文字」といい、あるいは祝祭日の「化電車」から「花氷」となり、氷の柱の中へ入れる花ということになると、花の字もあまりにも現実的になつて、美しさを感じないようになる。芝居の「花道」では七三の位置で、役者が見得をきる見世場になり、或は切り幕への引き込みの道、道路の代用ともなる。「花をつける」から「花札」まで、段々と下つてくると、花の字の用い方も品が悪くなる。「花盗人は盗人にあらず」という便利な言葉も生れてきて、隣家の垣根から花を頂戴する厚顔しいのも出,てくる。狂言の中にも「花盗人」というのがあり、これは五番習といつて、大分むづかしいものらしい。また瓜盗人というのもあって、夏の夜に瓜畑へしのび入って、やるまいぞやるまいぞと追つかけられる狂言もある。いずれにしても、日本の伝統と生活の中には、花という文字を使われることが多く、また日常生活の中に花を楽しむことが、習慣のようになつてきたようである。結婚式には、花婚花嫁をかこんではなやかな披露の宴をひらく。人生のいちばん美しい「華燭」の式典である。岡倉天心の「茶の木」の中に、「喜びにも悲しみにも、花はわれらの不断の友である。花と共に食み、共に喰らい、共に踊り、共に戯れる。花を飾つて結婚の式をあげ、花をもつて命名の式を行なう」とある。全く、花は私達の心の中にうるおいと色彩をもたらすものといえる。花

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