テキスト1970
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不便な時代に、阿波徳島まで流儀の花を教えにきた先祖のことを思い起して、深い感懐を覚えたものでした。船員がギターをひいていましたが、いやに情景の揃ったこの航海の夜は、二十オあまりの私にとつて深い印象をうけたのです。その後、撫養の町は鳴門市の一部となり、度々と鳴門市を訪問することが多くなりましたが、小原慶里さんを中心に、石田慶園、武田慶園、古林鹿泉、平岡慶文、田慶葉、阪田慶昌、稲木慶文の皆さんが師範として、この流像のいけばなの趣味の友として、また同笠傘下に集つて、熱心な努力を傾けておられるわけです。どの山に登つて、鳴門の海を見たことがあります。四国の東端にあって海を望む山は、手をかざしてはるかを望む眉(まゆ)の様に深い詩趣をもつ山です。眉山の突端に立つて、川上疫文、安ふと足もとをみると、そのあたり一めんに「狸々袴」ーしょうじょうばある日、徳島市の後背にある眉山(びざん)という三00メーターほ蘊翅琺'豆かまーーの淡紅色の小さい花が、群落をつくつて咲いていました。15センチばかりの短い茎のこの花は、にぶい紫紅色のしずかな情緒をもつ花ですが、京都の北山の八瀬大原の谷間に見るこの花を、眉山の岡でみつけ出して、自然のやさしさに深い感興をうけたものです。その眉山の山麓にある東光寺には浮世絵師写楽の墓があるといわれます。蜂須賀侯お抱えの能役者が、この写楽だという説があるのですが、いろいろ疑問をもたれている謎の伝説の中の人物といえます。歌舞伎の「夕霧伊左衛門」のその名妓夕霧の墓が、徳島の本行寺にあります。阿波の名物「阿波踊り」「阿波の文楽」などとかく阿波は情緒豊かな国だと思います。徳島市の中心に流れるのが「新町川」で、それにかかる「両国橋」、かまぼこ型の鉄橋だと記憶しているのですが、この橋はちょうど明治時代の浮世絵か銅版にあるような古風な情緒をもつています。(徳島の皆さん誤りがあったらごめんなさい)さて、歴史をふり返つてみて、この阿波の国と桑原専度流の史実について、家元に保存している伝書「立花錦木」をひらいて、その後尾の一文を写真にとり見ていただくことにします。立花錦木は寛政三年に出版された木版清丁版の書物ですが、この書物には、桑原専疫流の始祖、冨春軒専製の花迫に関する見解や、作品などをあつめて、一冊としていますが、桑原専慶の門下で阿波の鳴門に住む一倫上人の花道に関する思想をも紹介しているわけです。日本の花道の伝書として有名なものですが阿波と桑原の花道について参考になるところが多いと息いますので、原文を現代語になおして、ごらんいただくことにしました。立花錦木(にしきぎ)のおくがき茂叔が蓮を愛するのは夏の日が最もよく、また渕明が菊を愛するのは秋の日が最もよい。しかし立花を愛する人の場合はそれらとはちがう。すなわち春夏秋冬を問わず変った木の枝、あるいは美しい草花を手に入れれば、それをそのまま活けて、上は美しい宮殿から下は貧しい家まで明るくはなやかにし、住む人の目をよろこばし心を気持ちよくさせることができる。すなわちこれが、桑原専廣流の正しい追であり、道に入るのは難しいことではない。我々の師、一倫上人は心を立花に託しながらも心を立花だけにとどめず、野山の樹々のながめ、丘や谷に咲き乱れる花の趣などを、天地をせまくせずに部屋に再現するのがよろこばしく楽しいことであるとしている。このたび、突然に小生は当世のまどいをさとすため此の本を編集したが、文章を書くにあたつては、地味で華美にはしらぬようにし、また仮名をまじえて、出来るだけ初心者にも意味を伝えるようくわしく記して自分で理解し得るようにした。しかし一輪の花で陽春をあらわすように、また一片の雪で厳寒をあらわすことができるように、この本もまた、一倫上人の心随を理解せしめるものでもある。寛政三年秋阿波鳴門のわき江雲亭亀翅奥書す. 面順・—-、桑原専慶流の伝書「立花錦木」の奥書(寛政3年版ー180年前).... j.. -.. 12

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