テキスト1970
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鳥nuなr の町へ行ったのは、私の二十オを少し出た頃でした。花、生花を習う人達が多くあり、京都より家元を迎えて「立花の会」などが盛んに催されたことが、古文書に残っており、流儀として重要な歴史の土地でもあるわけです。程度の汽船に乗り、はじめての撫養へ行くのは年若い私にとつては相当心細いものでした。しかしそれ以前に撫捉の泉股花氏や三田慶雄氏などの師範の皆さんが、京都の流展に来てもらっていますし、手紙も度々往復していますので、はじめての旅とはいいながら、なんとなく心に豊か二00年以前から桑原専巖流の立父が亡くなって後、はじめて撫養徳島から撫養へかけての地方には大阪の天保山桟橋から一00トン10名ばかり客待ちをしており、そのな期待をもちながら、数時間の船の旅を珍らしく楽しく感じたものです。今日では徳烏市も嗚門市もすつかり面影をかえて、近代都市となつていますが、そのときの船は島田島の西力の細い水道に入って、ら明神(あきのかみ)をへて撫養の池へ培きました。いわゆる小鳴門の細い海峡を潮流にのりながら、汽船はエンジンをとめて、船体をななめに傾けながら一00メーター程度の川の様にみえる水道を緩いカープを描きながら流れて行きました。手にとるように近い岸辺には民家や小学校の校庭があって、子供達が群つて遊んでいるのが見えます。この水道は山にそうて流れる川のような狭い海ですが、二、さの潮の流れが紺碧の水を底しれぬほどの深さにたたえて、まことに湊然とした感じでした。やがて撫養の舟つき場についたのですが、これは港という感じはなくて三0メークーほど海へつき出た素朴な木の桟橘で、乗合客の私達30人ほどがどやどやと上ると、の入口に土地の賎業婦らしい女共が群れをつき抜けて、遥路の両側にいかがわしい店屋の細い通りを撫掟の町に入りました。今日では大阪、神戸、和歌山方面の汽船は二000トン程度の堂々たるもので、ことに小松島港から鳴門市、徳烏市への連絡も便利になり、近代都市の隆盛を誇つていますが、私がはじめて行った撫養の町はまことにわびしい限りでした。そのころ撫掟の町では、桑原専脳堂の浦かの花を数える人もかなり多く、泉股花氏を代表として、播麿変季、蔵根殿栄、大岩脳巌、三田股雄、笹慶清、梶原疵瑞の皆さん達が、師範としてすでに老人の人達でしたが、男性の教授者が多く撫捉(鳴門市)を中心に板野郡全体にわたり、徳島市方面にも、この流儀の花を活ける人が多かったのです。撫旋の町並は細い通りに格子窓を作った、どの家も同じような作りの三十キロの早家が並んでいました。泉氏のお宅は才田という通りに面した二階屋根の低い家でしたが、珍らしくも京都から家元がやつてきたというので、流儀の人達が召集されて、はじめてこの若い顆りげのない家元が皆さんに紹介されたのです。その夜は地方の町の慣例なのか、その桟橋とにかく酒をのみながらということになり、全然、のめない私を中心において、花道の話やら土地の桑原流の話やら、ほとんど夜のつきるまで話しあったものでした。オ田、黒崎あたりを中心に、明神方面、北涎など板野郡、麻植郡方面の人達が多かったと思いますが、その翌日、附近の寺院の座敷をかりて流儀に関係のある門人の人達が三百名ばかり集つて、家元の花道の話をきく会、というのが催されました。会楊へ行って定められた席に座つてみると、まことに鵞いたことには私の周囲をとりまいて座つているのは六十オから七十才程度のおばあさん達が三十名ばかり、前列にならんでひしめいています。こんなにおばあさん達の総動員は、私にとつてはじめてのことですし、そして熱心にきき耳を立てているのです。どうにか話をすませて旅館に引き上げてくると、そのあとから押しかけて花の話をもつと間かせて欲しいとおばあさん達がやって来ます。ここの町はおじいさん、おばあさんだけの町かしらと、錯覚するほど驚いたものでした。撫掟よりの帰りは夜航海でした。往路と同じ一00トン程度の船でしたが、月の美しい夜で波の静かな航でしたが、一等船客として私一人が船海尾の上甲板の特別室に入れられて、船員の顔もみることもなく、ぽつんと船室に座わらされているのは淋しくわびしい思いをしたものでした。美しい月が船尾の波にくだけて流れて行きます。月の夜はたれしもものを思うものですが、この遠い海をわたつて、二00年も昔の交通のる閂11 (阿波のデコ)阿波の文楽に使われる人形の頭は,デコと呼ばれる。人形作りの人は人形師(デコ師)である。桑原専渓

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