テキスト1970
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,12, 造形名古屋オリエンタル中村デ。ハート「いけばな巨匠展出品」この作品の下部は山をさかさまにした形です服、服飾品などを商つていたものでした。特定の客を迎えていわゆるハイクラスの商売をしていたものでした。大丸さん、甘回島屋さんとお客の方から敬称でもつて呼んでいたのですから、そのころ中々、権威を誇つた店でした。その高島屋で桑原専災流展の催しがあり、その最終日になつて、今日と同じように花展の撤花日を迎え、花器を運び出すことになりました。今日のようにエレベーターはありませんから、階段から花器類を手伝いの男どもに運ばせたわけです。そのころ私の家につとめていた作造という五十才位の男があったのですが、この人がこの写真にある三つ足の染附水盤を三階の階段から手をすべらせて落したのです。丸い水盤のことですから、転々と勢いよくころげ落ちて、二階の折返し階段から一階まで落ちて行き、幸いにも階段にはじゅうたんが敷きつめてあつて幸運にもこの花器は少しも痛むことがなく無事でしたが、この作造という男衆は宕狭の出身の正直一途の人であったとみえ、全く青くなつてその水盤だけ―つ持つて、会場から桑原の家へ帰つてきました。そのまま家に入ることも出来ず、丁度、丸太町寺町の警官派出所の前を通りかかつて、その交番に入り込み、居あわせた巡在に事情を話しこんだらしく、暫くして、その巡査が作造氏をともなって私の家に来ました。巡査が一緒に桑原へ行ってあやまつてやろうというわけです。とにかく、のんびりとした話ですが、その警官の人も懇々と事情を説明して許してやつて欲しいと言葉を添えて下さったわけです。作造氏はただ恐縮して小さくなつていましたが、その花器をよく見れば、別にどうということもなく、少しの破損もしていません。なんだか奇妙な話ですが、ただ高いところから秘蔵の花器を落したというだけで、責任感に圧倒されて恐縮してしまったのです。皆さん、この話をどう思いますか。大正時代にまだ多く残つていた社界の人情をあらわした佳いお話ではありませんか。今日、この因縁のある花器に生花を活けて皆さんに見ていただくのです。少し紅葉したまんさくの枝を軽く挿して、渋い味わいのある中菊を根じめにつけました。作造爺さんは地下からこのいけばなをみて、どんなに思つていることでしよう。戦後まもなくの頃であったと思います。名古屋市の「オリエンタル中村」という百貨店が「いけばな巨匠展」という花展を企画しました。代表的な花道家八名を選んで、広い会場に一作ずつ力作を活けてもらうという、この店としては全力を挙げた催しであったわけです。オリエンタル中村は、名古屋市の中央にあ肩をならべる大きい店なのですが、東京、大阪、京都の代表的な花迎家を招待して、大変な意気ごみで企画を作ったわけです。東京より勅使河原、早川、りは小原、河村、中山、京都は池坊、辻井、桑原の八名が依頼されて、それぞれ一作ずつ、大作を出品することになりました。なにしろこれまでにない大きい企画であり、会場も四00坪程度の広大な会場に八作たけならべるのですから、出品者の方もかなり責任の重い花展であったわけです。私としてはこの出品作に全力をつくすことはいうまでもありませんが、流像の代表者としてその面目にかけても力作を出さねばなりません。会期の一か月以前から作品にとりかかり、伏見京町の師範中村艇松氏の協力をたのんで、なにしろ大作品のことですから、特別の制作場が必要ですから、中村氏の裂側にある奈良電車のガードの下を工作場にして約一か月も時日を費して、私の理想とする作品を作り上げました。9。ヘージに掲載したのがその作品で、これは会場で撮影したものでする9階建の百貨店で大丸、松阪屋に大阪よ桑原専慶流家元`桑原,

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