テキスト1970
102/136

私はこの号のテキストに「伝統のいけばな」という主題をすえて、主として江戸中期より行われる様になった「生花」ーせいかー|についてその一部分の解説をしようと思っております。一部分というのはこの江戸時代から現代にまで伝えられてきた「生花」の技法や形式が、その範囲も広く、例えば春夏秋冬に生花の材料として使う草木の種類も多く、またそれぞれその花の活け方、考え方も異つていますので、ここに掲載する写真や解説も、極めて部分的なものであるという意味です。生花といういけばなは、どんな作品をいうのかということについては皆さん充分御承知のことであるとして、「生花と伝統」という直接的な問題に入って行こうと思います。「伝統」という言葉は一般的によく使われる言葉ですが、その内容は中々重要な意味をもつていますし、ことに「伝統芸術」などという言葉になりますと、問題がいよいよ広く深く考えねばならぬことになります。一般的に解釈してみますと、それは長年期にわたって、恐らく数百年にも及ぶ昔から伝つてきた形式方法のことだと思つのが普通であります。文章の中にしばしば、むしろあまりにしばしば出てくるが、これは古くからわれわれの国語の中にあった言葉ではない。」「恐らく明治年間に新たに造られたものである。漢字が二つ並んでいるから中国から来たと思ってはいけない。中国にはこんなまず「伝統」という言葉の意味を桑原武夫氏の説によると「伝統という言葉は、現代日本語の言葉はない」ということです。全く、私達は伝統又は伝統芸術という言葉について、すぐ理解の出来るほど一般的な常識をもつていますが、さて、その真実の意味については深い問心をもつことが少ないと思います。辞害によると「伝統とは系統をうけ伝えること、またうけ伝えた系統」と記してあるのですが、これは表面的な解釈であって、ことにそれが日本の昔から伝えられた芸術ということになると、この伝統の意味が別の意味になって、中々深い意味をもつようになるのです。伝統によく似た言葉に「伝承」というのがあります。承(しよう)というのはうけつぐことであって、古くからあった制度、習慣、伝説などを現代に或は次の世代にうけつぐことであって、単に伝統とか伝承などの言葉は私達の芸術の仕事をするものにとつては、そのままうけ入れることの出来ない言葉といえます。私達がいけばな、ことに立花、生花など数百年の歴史をへて、うけついだ花の作り方を、表面的な意味の「古くから伝った形式方法」としてそのままの言葉のままに受けとつてよいものではありません。花道に限らず「能狂言」の場合でも「茶道、歌舞伎、文楽」など伝統芸術、又は芸能(私の嫌いな言葉)といわれるものの中には、ただ形式技法をうけついで、今日に行なわれているというもののみではありません。他の分野のことはしばらくおき私達の伝統いけばなが、単に形式技法を昔のままのものを踏襲していると思うのは真実をしらない人達の考えることで、実際に今日の伝統生花を勉強する人達にとつては、おかしく考えられるのは当然なのです。伝統芸術とは、伝えられた形式手法によって、新しい時代に調和する研究を常に怠ることの出来ない性格のものです。古い形式手法をそのままうけついで作るものではない。ことにいけばなの場合は、その時代の生活に調和する作品であることが、根本的な目的になっており、花器の選択、材料の選択などを考えても、花造の伝統の意味と解釈が、変つて行くのも当然のことといえます。「新しい時代に調和する伝統形式のいけばな」という考え方が、ここで頸をもちあげてくることになるのですが、私はこれについで私の考え方をのべてみようと思います。今日の時代を考えてみると、日ごとに外国の文化が浩々として入ってきて、とかく日本古来の文化のよさを忘れがちになる状態にあります。こんな個性のぐらついた現代の生活思想の中においては、日本の伝統と文化をふりかえつてみて、より大切に考えるべき時代ではないかと息うのです。日本の仙緒を大切にし、その上になり立つて成立した、いろいろな文化と思想、生活のあり方を深く考えるべきだと思うし、伝統の優れた生活様式や、芸術をいよいよ大切に考えるべきではないかと思うのです。これは古きものに対する単なるあこがれではなく、平凡なノスタルヂアではなく、真実のよきものを今日の世代の人達が大切に考えて欲しいと思っところから出発した私の希望です。さきにいったように、今日の生花は今日の生活に調和するものであることが必要であり、花器も花の材料も自由な解釈を加えて、一般的に考えられる窮屈な伝統の形式を押しひろげる、創作的な考え方が必要であります。ここで問屈となるのは生花の形式手法を、現代の花としてどんなに解釈をかえて行くかということです。「自山」という言葉がありますが、真実の自由とは節度のある思想行動ということであつて、伝統芸術の新しい解釈はこれと同じように、生花の長年月にわたる研究を土台としてその上に成り立つ創作でなければ真実のものは作ることは出来ません。練磨によって得た優れた技術の上に、新しい考案を加えることが理想だと思うのです。(専渓)2 鼻

元のページ  ../index.html#102

このブックを見る