テキスト1970
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だ環境の場所の中で、文部省天然記念物の指定をうけて、植物学界で有名なこの蓮池をみて、.奇異な思いがしたものでした。他の場所ではこの「多頭蓮」は絶対咲かないといわれていますし、守山の農家の裏池に咲くこの蓮も、持明院の蓮も、その場所がなんとなく伝説めいて暗い感じがします。さて、高山の町は富山よりは2時間ばかりの山峡の盆地にある町です。名古屋へは3時間ばかり、これも飛騨川にそうた渓谷の山また山の中の、まことに交通の便の悪い山峡の町といえます。40年以前に東海と北陸本線を結ぶ高山本線が開通して、訪れる人も多くなったといわれますが、歴史の上の高山は有名な土地で天正年間(-五八五年)越前城主金森長近が攻略して、秀吉から飛騨国を得て、高山城を構築し、高山の城下町を作ったのが始めといわれています。その後百年、金森氏の領土として、森林、鉱山などの事業を起し豊かな財政の基礎となったのですが、金森氏の治世は百余年で終つて、幕府直轄の天領ということになったのですが、これは附近にあった金鉱、森林の資源などが窮迫した幕府の財政のために、金森氏を出羽に移封して、それを天領という名のもとに徳川氏が乗っとったものといわれています。とにかく、この時代から資源の般かな土地であり、しかも交通不便な土地でありますから、幕府4人ら派遣された代官が実権をふるつて、いわゆる高山陣屋を構築して暴政をふるったものといわれています。高山の百姓一揆(いつき)は物語にも有名ですが、そのころの農民が結束して年貢の減免、悪役人の退去などを要求して暴動を起した話など、悲痛な歴史が残っています。「高山陣屋」はその頃の代官役所ですが、その建造物は市内に残っており、現在、この陣屋の門前が高山祭の中心地となつているのも皮肉な歴史の名残りといえます。高山市は小京都といわれますが、古来、建築工芸の優れた土地であり、静かな町のたたずまいと、古い町家の建ものが残存して、すばらしい日本建築の構成の美しさを見ることができます。碁盤の目をみるような町づくりの中に出格子のある町並や、風格のある旧家、寺社建築の壮麗など、深い趣味をたたえた町といえます。特に民家の中にすばらしい建造物がのこされていることです。富裕な町家生活の名残りといえますが、日下部家、八賀家、吉島家などはいずれも高山の伝統工芸の優れた構成美を私達に教えてくれるのです。上一之町、一之町、二之町、三之町などにこれらの旧家が集まつて、それぞれ重要文化財として一般の人達に見学できます。これらの有名な旧家を見学しながらそれにつづく町並には、古い傘屋、味噌屋、桶屋、旅人宿などといった時代をもとに戻した様な店屋があり、造り酒屋の旧家の軒には大きい杉の玉がつり下げられてあつて、これが酒屋の標識となっています。かうじ屋、朴葉(ほうば)味噌の店、ろうそく屋、山菜料狸、粕進料理の店、みたらし団子の屋台、とにかく野趣に謁ちた町です。町の中心を流れる川は百メーターほどの川はばの宮川といい、ら市中へ流れる川で、京都の鴨川に擬せられています。この川の4番目の和合栢から13番目の連合栢までは禁猟区となつており、川辺にたたずむと、流れの方々に大きな鯉や鱒がゆうゆうと泳いでいるのがみられます。市内の河川でこんな景色のみられるのは全く珍ら二之町、三之町、下飛騨一ノ宮水無神社かしいことです。この川べりに毎朝七時ごろから十時頃まで、朝市が立ちます。近郷の農村から生産された野菜や山菜の類、切り花などを道にならべて売つている景色は、実に素朴な感じがします。これは一年を通じて雪のある冬季も行なわれるそうで高山市の名物となつています。さて、私は高山の町でいろいろな珍らしい器物をみつけて買いました。大きいものは六尺もある木船から、直径三尺もある木臼,相当年代の経ったもので民芸的な味わいと、面白い形をもつています。いずれも花展の際に花を活けてみたいと思っています。その他、花器に使えるもの(民芸品)を買いました。このテキストの写真の中に花を活けて、おみせしましたものがその一部です。実用的な器物ですが、いずれも而白い味わいをもつています。先月号に害きました「倉敷」のお話の中にあるように、倉敷も高山も天領という名のもとに幕府直轄の政治の行なわれた土地です。そして、それぞれ特有の文化と伝統を完全に伝えられている町として、共通のものがあると思います。更に豊かな「民芸」を伝えている町として、よく似通ったところがあります。日本のふるさとの町として、京都、倉敷、高山は共通の風雅を大切にしている町だと思います。(写真小西進)(高山の朝市)12

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