テキスト1969
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9巡~' この月のテキストには「ガラス器」のいけばなを掲載することになったので、ここではガラス器について一般的なお話をしてみようと思う。昨年、金沢へ行った際に、前田家の旧邸「成巽閣」せいそんかく、を見学した。そのとき座敷の蹄子にガラスが使われてあつて、装飾的にはめこまれた色絵のガラスが古風な書院によく調和して、その時代の大名貨族の生活が感じられたものであったが、成巽閤は文久3年(-八六三年)にできた百万石前田家の大名屋敷で、江戸時代の住居でガラスを使った家具調度は、この成巽閤の障子が残るだけといわれている。桃山時代から江戸時代へ入って、外国との交易がはじまるにつれて、ガラスの装身具、生活器具のガラス製品が、外囚よりもたらされ、オランダ、ポルトガルの交易船による輸入品の中に、ガラス器のコッ。フ、酒瓶、ガラス鉢、花瓶などを見ることになり、はじめて透明のガラス製品をみる日本人は大変な驚きをうけたことと思われる。ぁって、仏開眼の際に外国より奉献されたも製品のこのガラス器は、その時代のガラス工芸がすばらしい美術製品をこのガラス器具によって天平時代、奈良時代に、すでに外国においてはガラス工芸が発達しておったことを知ることができるのである。奈良正倉院には6点のガラス器が洒杯、壷などが、東大寺大のと伝えられるが、中国、ペルシャつくりあげていたことが理解され、その時代のガラス製品は、仏具の装飾品として、装身具に用いるるり玉の小品などの類、生活用具として酒杯、水壷の類が多いのだが、また儀式に用いる「第の装飾」として、或は衣裳の帯の装飾としてガラス玉をつけたもの、その他、各種の生活用具としてガラス製品が使われていた様である。大阪・藤田美術館に「中国元時代の羅漠図」が所蔵されているが、その図中にガラスの大瓶に蓮の花をけた図がある。透明のガラス瓶にすりガラスの雲形紋様を描いたガラス花瓶はこの時代の中国ガラス工芸のありかたを伝えている(-三00年)日本ヘガラス器具が伝えられたのは、ローマ、。ヘルシャより中国をヘて朝鮮の新羅、日本へは九洲の長崎へもたらされたのがそのはじめといわれる。また海路印度洋より南支那へ渡り、オランダの交品船により長崎へ伝ったという一説もある。これらのガラス器具の伝来は、室町時代より桃山時代へかけて、外国の布教師が将軍家への贈りものとして献納されたもので、ガラス器の透明と軽快な感じは、その時代の貴族に大きい魅力を与えたものに違いない。日本の陶器に対してガラ器の硬くするどい感覚は、当時新しく目にふれた器物として驚異なものであっただろう。日本でガラスが製造されたのは、江戸初期寛永、元録時代といわれる。外国交易よりはじまつてガラス.. 製造の方法が日本へもたらされ、長崎より大阪へ、江戸へ伝えられ、また一方、長崎、薩岸、山口、佐賀の各藩に伝り、江戸末期には薩庶藩でイギリス人から技法を学び、いわゆる薩摩ビードロの色ガラスの類が始められる様になった。元録時代にはすでに日本のガラス製造も盛んになり、水呑杯、鉢、栖培、花瓶、金魚鉢、オランダメガネ、釣花入の類に至るまで盛んに作られる様になり、形に美しい意匠をほどこされたもの、絵をかきつけたガラス器、また室内装飾としてガラスを仕組んだ障子、天井をガラスで張ったものなど豪華なガラスの装飾用途が考案せられる様になった。江戸時代に作られた切子(きりこ)ガラスには(鉢、碗、小皿、水滴、文鎮、けさん)などの小もの用具にまで及び、精巧な図案紋様の切り子ガラスの製品が作られ、美術的な意匠のあるものが広範囲にわたつて作られている。江戸時代のいけばなの花器としてガラス器が使われていることは、残された文献の中にもほとんど見られない。この時代のいけばなは立花、生花の全盛時代で、銅器、陶器、竹器、篭、木製花器がほとんど使われており、技巧的ないけばなの技術方法と、ガラス器のこわれやすい性質とが、使いにくかった花器であったに迎いない。投入れに活けたガラス花瓶のいけばな図があっても、立花福岡、や庄花のガラス瓶の挿花図がないのも、これによるものと考えられる。以上の様に江戸中期より末期にかけて、日本のガラス丁芸は急辿な発展をとげ、江戸の町にはガラス器具を売る店もひらかれ、びいどろ(ガラス)切りチ(カットガラス)の名によって庶民の中に普及されることになった。江戸時代のガラス器をふりかえつてみて、その特微は、ガラス器が美術的な味わいをもつ容器、用具として用いられているのに対し、これが明治期に入ると、工業的には発展したが、工芸品として美術的な内容の作品がほとんど少ないということである。一般大衆の用具としてガラス器具が普及されていったが、芸術的な工夫のある作品が少ない、ということができる。これに比較すると江戸時代末期が日本のガラス器のいちばん熱意のあった時代であったことが考えられる。ようやく昭和に入って工芸品として侵れた作品が作られる様になり、況代に及んでいるのだが、明治は庶民大衆へのガラス普及の時代といえるだろう。これは、花道において江戸時代にすばらしい作品を創作して花道の芸術として優れた開発をしながら、明治時代は伝統をまもるだけの平凡な時期であったことを思いあわせて、これは明治期が日本芸術全般にわたる停頓の時代であったと考えて誤りないと考えられるのである。ガフス器の話. 活. 専渓10

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