テキスト1969
87/147

きのうの桔古に「夕涵平」を活けた。クリーム色のバラとなつはぜの緑の葉。この――一種の取合せである。夕裾草は淡い紫色に咲く山草の花で、藤袴によく似た形のしずかな情緒をもつている。山地に咲く花らしい索朴さと、その花の色は幽玄という言葉そのままのやさしさをもつ花である。栽培の草花であるが、六月に入ると紫陽花の水色の花、河原なでしこのうす紅とともに、夕紛草の花をこころ待ちに待つ私である。華やかな春の花が終つてこれからは山の花木、野草の季節である。園芸種の花とはちがった自然趣味の花を見るのも楽しいし、しずかな感じの山の花を小品の投入れに活けるのも楽しみである。きんばいそう私達花を活けるものは、四季を迎じておびただしい種類の花を見るのだが、さて、花を栽培して咲かせることにはどうも自信がない。ことにその品種を類別して、その名を覚えることも中々大変なことである。私などその不勉強の代表みたようなものであるが、そのときどきの必要にせまられて、図鑑をひろげてしらベるぐらいが関の山である。そのくせ園芸方面に知人も多く、勉強する機会が多いにもかかわらず、あまりにも広い範囲の植物には、つけ焼刃の勉強ではどうにも仕様がない、ただ、シャッポをぬぐばかりである。それでも機会は度々とあるので、園芸に関する陳列会や、盆栽会などを拝見に出かけて、そのたびごとに園芸方面の皆さんの努力に敬服するのみにおわる。ときどき盆栽園を訪問したり、植物園に行って、花を見る様につとめているのだが、京都の寺や神杜の縁日の植木市などによく行って、小さい鉢ものの山草や、庭に植えこむ野草の類を買つてきて、狭い庭の片隅に植兄こんで楽しむことにしている。きのう、少し時間があったので、東寺の植木巾へ行って買つてきたのが、金梅草(きんばいそう)かのこそう、ほたるぶくろ、ぬまとらのお、の四種。さつそく庭へ植えこんでみると、茶庭風の私の庭によく調和して、すでに葉のひろがっている、しまがや、ようやく咲きはじめた紫ききよう、河原なでしことともに、しずかな色をそえている。きんばいそうは四、五年以前に伊吹山に登ったとき、六合目あたりで咲いているのを見つけたが、短かいかんぼくに梅花に似た黄花をつけた雅趣のある花である。そのとき、くかいそう、しもつけ、からまつそうなどが付近に咲いておったが、河原なでしこ、沼とらのお、白糸草など、6月20日前後に咲く、と私の記録帳に記してある。私の庭にあじさいの赤紫の花が、今、満開である。紅がくの株があったのだが、いっしか消えてしまつて、ハイトランヂヤの大頭の花がその場所を占領している。富士山麓の白糸の滝に行ったのは、よほど以前のことだったが、滝口に水しぶきをうけて「たまあじさい」の咲いておったのが忘れられない美しさであった。落下する滝水の霧の中に咲く青い玉あじさい群落は、ちょうどこのごろ咲いているだろうと思いおこす。私の庭に秋田ぶきがある。勝手そだちのふきなので葉も小さく、たけも短かくあわれであるが、秋田ぶきは東北地方の大葉のふきで、葉の訂径は1メーターに及ぶものがあるときいている。IL、で苦いた手紙がある。サンフこれも大分以前のことだったが、伊豆地方を旅行したことがあった。下田のある旅館で偶然一紹になった女学生のグループがあった。京都にぜひいらっしやい、そのときは私の家でお宿をしましようと約束して別れたが、その翌年の夏、前もつてそのお嬢さん達から手紙があって、私の家へ二泊ほどとまつて京都見物をしたことがあった。そのとき秋田ぶきの話をしたところ、またその翌年の五月頃に大きい荷造りの秋田ぶきを送つてもらったのだが、その秋田ぶきがすつかり根をおろして、毎年、季節になると庭いちめんにひろがつて、素朴な秋田の娘さん達の想い出を残している。川端康成の「伊豆の踊子」とはいささか違うけれど、ふきの若葉の出る三月四刀には、雨に降りこめられた伊豆の宿を思い起し、その旅愁に似たようなものをいつまでも楽しんでいる。私の家にはときどき珍らしいお客様がくる。今日、US、AIRMAランシスコ、サクラメント、ストリート1266、ハルステッドメアリさんの手紙である。この人はアメリカの航空会社のスチュアーデス。京都へくるたびに私の家に泊る。日本語が出来るので私どもと一緒に話しあい、お食下もすべて日本食をよろこんでたべる。みじかい時閤だが、私に習ったいけばなを、事務所や家庭に活けて楽しんでいるそうである。「ありがとうございました、みなさんによろしくいつて下さい。さようなら」と日本字のひらがなで書いてある。このアメリカのお嬢さんとは、羽山の空港で偶然と出あい、京都の私の家へおつれした人なのだが、旅というものは息いがけない友人をみつけあうものである。京都の東福寺、伏見街道22丁目に飯山新七氏の別邸があった。庵」といつて広大な山荘であった。今はないけれど、高島屋の会長のお宅だったが、その頃、西本願寺よりの紹介で私がお花を活けておった。飯田さんは西本顧与の信者で、本山勘定という顧問のような役目を引受けておられたが、立花が大変お好きなので、私がこの本宅の広間の書院に立花を作ることが再々としてあった。庭に槃屋の茶玉があつてこれが「呉竹庵」なのだが、丁度6月頃、秋田ぶきの株が庭の一隅に大きい葉をひろがらせていたのを、例年きまった様に、茶室の床に銀の花瓶の二尺ばかりの大ぶりの花器に、ふきの葉を3枚きりとつて足もとを煮き、活けあげるとみごとに調和して、雨のころの床の花として、しい調和をみせたものであった。6月のいけばなのおもい出である。「呉竹みずみず(専渓). 梅11

元のページ  ../index.html#87

このブックを見る