テキスト1969
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私の家にイギリス製の古いラン。フがある。ちょうど四0年ほど以前に私の家へ来たのだから、あああれかと皆さんがご承知のランプである。それほど貴璽なものではないのだが、終戦まぎわに妹屋町の古い家が強制疎開をうけてひき倒され、それから現在の住居にうつるまで、転居を重ねるごとに、とにかくお供をしてきた、私にとつては、愛若の深いィギリスラン。フなのである。三00年ほど前の古い品ものだが、堅牢に出来ているし、巻き上げの金具など中々精巧な仕事がしてある。そのころ、いけばなの出稽古をはじめた私が、ふと、通りかかった道具屋で見つけて買ったものだが、さて、部屋にかけてみると伝統の古いさびと、外国の異風な味わいがあって、座敷にもおちついてよく調和する。その翌H、売り主の道具屋が割り増しをつけますから戻してもらえませんかと、あわててかけ込んで来たという様な、つけたしのお話もあつて、とにかくそれ以来四0年、今の住居まで、装飾の役目をつとめてきた、というわけである。衛1氏の股園で、桜の珍ら昭和18年の春だったと田心うのだが、私の妹屋町の家で「桜の会」といういけばな会を催したことがあった。洛西山越町の佐野藤右しい種類のものを30種ばかり、特別の厚意によって切つてもらったのを材料として、私がいろいろの花器に活けて、個人展という様な感じのいけばな展をひらいたことがあった。佐野藤石衛門氏は有名な桜の蒐集家で、栽培されている品種も全国にわたる品種があり、桜の研究では日本を代表する名家だが、その中から多数の品種を切り花にして、趣味のいけばなを作ることができたのは、まことに望外の幸せであった。その中には台湾ひざくら、千島ざくら、うこんざくら、仙台しだれなど、珍らしい品種がふくまれていたことであった。この日はほとんど瓶花盛花を活けたのだったが、その夜、庭固研究家の重森三玲氏にお願いして、「庭園と立花」について講演を聴いた。さて、ここでイギリスラン。フの話になる。なにしろ、以上の様に花の会としては、趣味の深い会を催すことなので、作品はいうまでもなく設備その他に充分の心をこめて、この会をひらいたものであった。催しそのものが重厚な感じであるから、花器の選択や、配合の材料、花席の装飾まで、随分気をつかったものだったが、重森氏の講演の席には、この写爽にあるラン。フをつって照明としたが、ちょうどこのころは、戦争も大分むづかしくなったそのはじめのころで、ラン。フに使う石油も乏しくなつており、魚油の様な褐色の油を油壷に入れて、少し暗いほどの燈火の下で、来会の皆さんとともに講演をきいた。ジリジリという油の燃える音がして、いかにも佗びしい景色だったが、下で」というのは中々’演出効果があり印象深い夜であった。このラン。フのガラスの笠や油壷を花器に使って、花を活けたことも度々ある。さびのある金色が花によく調和して、応用花器ではあるが、中々上品な味わいをもつている。モンステラにバラなどを、活けたこともあるが洋風な渋味がよく花に調和して面白い装飾花となる。今日では、石油ラン。フなど普通には考えられないが、私どもの子供のころは、燈火はすべて石油という時代であつて、毎夜ともす石油ラン。フの印象は中々深い。天井に釣る「釣ラン。フ」座敷に瀾く「竹ランプ」など、その時代の夜には明るい照明具「ラン。フの光りの.. もだった。私の父は、このうすぐらいラン。フの灯のもとで、立花の松の葉を組んでいたものだが、子供の私も半分はいねむりをしながら、お手伝いをさせられたものだった。蝋燭(ろうそく)の光りの最も効果的だったのは、能舞台に立てた燭台の蝋燭であった。ろうそくの光りはしずかな風にもゆれ動く。かづらのの女の面(おもて)や、老人の能面などが動く光りに照らされていよいよ幽怒哀楽の表惜を深いものにする。あるいは、金色の衣裳への動く光りは、今日の屯灯の照明では見ることのできない実感と気品をつくり出すものであった。いけばな会にも蝋燭の時代があった。大正時代には電灯の設備のない場所もあって、そんな所で催すいけばな会は、致し方ないので蝋燭を使つて照明していたことがあった。どうも古くさいお話ばかりで恐縮なのだが、京都四条寺町のあの繁華街にある八坂神社のお旅所、ここで私どもの流儀のいけばな会が、毎月15日に,日をきめて催された。十数年もつづいた京都では有名な花の会であったが、これも百匁蝋燭というのか、太いろうそくを20本ばかり、鉄製の燭合(しよくだい)につけて、時間がたつにつれてもえつきた蝋燭のしんをはさみとつて、手提の壷に入れたことがあった。これで結構、明るかったのである。いやどうも、大変、古いお話ばかりで恐縮です。(専渓)..... . ... 12 火か~~ 燈喜

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