テキスト1969
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絵校様のある陶器には、九谷焼(<たにやき)、染附(そめつけ)の二つが代表的である。いずれも磁器に絵付をした陶器だが、九谷焼は赤絵が多いし、染附は藍絵の陶器といわれる様に、白磁に宵色の絵具で描いた陶器である。九谷焼は大樋焼とともに、加賀百万石の金沢に伝わっている陶器であり、染附は古い時代の清朝の染附より日本に伝わって、有田、伊万里、京都清水の各地の窯で作られ、今日に至った様である。彦根の井伊家の庭で焼いた湖東焼という染附があるそうだが、現在はどうであろうか。絵のある花瓶先日、金沢に用事があつて、そのついでに九谷焼の名品を見る機会にめぐまれた。観光バスで見学する九谷焼窯元というのは、大体につまらないものが多いのだが、成巽閣や県立美術館、その他、蒐集家のお宅を訪問して仏統の名品や、最近の新しい作家の飯れた九谷焼作品のかずかずを見ることができた。京都の清水焼の様に、令沢の九谷焼は全国的に知れわたったものであり、町の繁華街の陶器店はどの店も九谷焼の製品が陳列されており、これはみやげもの店ではなく、美術的な絵皿、花瓶、食器などの多いのに忍心したが、九谷焼は色彩といい、図案といい、一目でそれとわかるほ玲}ど統一された作風であるしことにその中に、現代的な新しい色彩や図案など、美術的に高度なものが多い。さて、赤絵の多い九谷焼、監絵の染附はいずれも絵付をした磁器であるが、私逹がそれに花を活ける場合を考えてみる。私逹は絵付けのある花器に花を活けるのは、案外少ないのではないだろうか。私自身の持つている花器を考えていても、で、染附は二十個ほど、。九谷の花器はこれも五、六個にすぎない。今度買つてきたのをふくめて十個程度である。白地に猿い藍絵具で図案をつけた染附は、花との調和もよく、ことに晩春より秋まで、実に花うつりのよい花器である。クリーム色のバラ、笹百合、キキョウ、牡丹、シャクヤクなど、椿の花もよく誠和する。こまかい線の枝ものよりも、大きい花、大きい葉のほうがよく調和して美しい。染附の花瓶は、青磁と同じ様に夏季のほうが、清爽として感じがよく、白地に冷水の露が浮き出るような、そんな感じが染附らしい味わいである。染附は校様のある陶器の中では、一ばん目ざわりにならない花瓶で、500個ほどの花器の中さつばりとした紺染の浴衣の様に、また、暴絵の様な味わいの花瓶だと息う。これに比較すると九谷には重厚な味わい、古典的な能衣裳を見る様な、そんな厚味のある華やかさがある。その華やかさは漆の蒔絵の様な落着きを感じる。九谷焼の花瓶に活ける花は、どんな花がよいだろう。色絵のある花瓶であるから、大きいものよりも小さい小振りのものが好ましい。小さくとも名作の花瓶、そんな花器が好まししし、。しがしらの紅八重椿、紅色ぼたん一種、大輪菊一種、花菖浦一種、そんな大輪の花の色の強い花がよく調和するだろう。さて、九谷も染附も絵附の花瓶であるから、その絵又は図案が巧く描けてないと駄目である。古い陶器の中には中国風な山水を柚いたものもあるが、そんなものは辿い昔の図案であって、よほど筆者の優れたものでない限りつまらないものである。九谷もその通り、それが抽象的な図案であろうと、古風な陶画であろうと、よい絵であること、新しい考案ある絵付であること、これが肝心である。その中に、高い品格が感じられるわけである。花を活けてもしつくりと落ちつく花瓶である。数年前、京都美術館でギリシャの美術に関する展甕会があった。古代ギリシャの花瓶、食器、生活用具など多数出品してあったが、その中に陶器の酒瓶、水壷などがあったが、どれにも黒、赤などの絵の具で絵附けがしてある。陶器としては専凡なものだが、絵がすばらしく立派であり、ギリシャ瓶は形そのものは実際用途に役立つためのものであり、装飾に描いた絵は、その陶器の絵附けをしただけではなく、陶土の而を借りて絵を描く、陶界の装飾叫ではなく、陶器の面をカン。ハスとして絵を描く、というそんな考え方の様に息える。九谷や染附けには、これと同じ考え方があるに迎いないし、随つて九谷や染付の芸術の中心は、絵付の巧拙にあると息う。花を活ける立場からいえば、下手な絵のある花瓶は、活けても花が引き立たない。拙い絵にまきぞえをくつて、花までも悪くみえる。大体、どんな花瓶にしても俊れた陶芸家の作った作品は、形に無刑がなくバランスがよくとれて、安心して活けられる。花器は花を活けるものである以上、花を活けたとき、花と花器とが―つになつて、形、色調、趣味などが、よく調和することが必要であり、したがつて、これを選択する側の私逹は割に花器についての勉弛をすることが大切である。(絵と文専沃)12

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