テキスト1969
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'⇒ーにそのころ、京都姉小路に「椿餅」の老舗があった。道明寺で作った餅菜チを青々とした椿の葉で、●下を包む様に重ねて、白い餅、につけいの淡い褐色の餅の二種を売つていたが、低い屋根にむしこ窓という、古い京都の店のつくりに、黒いのれんに「椿餅」と白地で染め抜きの屋号をいれて、表口の水iWfIみずため、四季の区別なくいつも椿の葉の群ったものを、つつ込みざしにしてあったが、結構これが而標となつて、姉小路の名物として緊HElしていたものである。七十オあまりの老母と、四十オあまりの娘さんが二人の生活で、まことに佗しい生活の様に息えたが、ことに、少し頭のおかしい娘さんを利手に、伝統のつばき餅だけ一柾を、商品にするこの椿餅のしにせも、いつしか消える様になくなった。椿餅は「つばい•もちい」といつて平安朝の時代からはじまった菓子の、そのはじめともいわれるもので、笹巻ちまきや、かしわ餅、とち餅、さんきらいの葉で包む餅菜子などとつばき雑話ともに、木の葉の香りとその情紹を楽しむ、口木的な菓子である。堅く緻密なので、器具その他のエ作材料として用いることが多く、実は椿仙の原料として使われ、伊豆大島の格油など有名だが、先n、ある書物をしらべているうちに、椿の葉をる農村のあることを知り、まことに興味の深い話だと111心つた。と、ツバキの生葉をないて刻みたばこの様に吸う皆恨は、和歌山県、奈良県、三重県などで行われ、視在はほとんど少なくなったが、老人の間では、椿の葉巻は味がよいといつて、愛用している人があるということである。のカラー写真が掲載されている。角田尻子氏の随筆を添えて、山形市の白既山麓の「雪椿」が紹介されているのだが、白花の清純な地じがよく撮影されており、人変参考になる。する椿で、一名オクツバキ、サルイワツバキとも呼ばれ、花色は白、淡紅、赤色のものがあり、一直八市咲など、数百種にも及ぶといわれている。雪椿は北陸地方の古のとける季節(四月より五月)に咲く椿だが、赤色の花が多く、普通のやぶつばき椿は用途のひろいもので、木質が「たばこ」の代用品として使ってい林学博士矢頭献一氏のお話による雑誌「旅」の二月りに「舌つばき」椿は北陸、東北地方の山地に自仕などにくらべると、少し小別の花で、樹は低く一・ニメーター程度のものが普通である。椿は東洋原囲の花で、テツボウユリと同じく、日本の山地に野住する。今日においては世界の花としてひろがったが、その花葉と樹幹の形はまったく日本的な味わい深い花である。さて、小ヂューマの「椿姫」じ人公)が、紺晩劇楊にあらわれる楊血がある。必ずオ。ヘラグラスと菓子の袋、椿の花束をさじきの前へおき、一カ)のうち二十五日は白椿、あとの五nは赤椿であった。彼の女の買いつけの花屋のおかみさんが「椿姫」という名をつけ、これがこの及人の通り名となった。この物飴は有名なお話で、私もたびたび歌劇や映圃でみたが、手にもつ椿は、それが八重の乙女椿であったり、単総の紅つばきであったりして、特に印象深く感じられたものである。単辮の紅椿というと「妙辿か」という種類が花も大きくのどかに咲き、切り花にしても堅いつぼみまで花を咲かせて明朗な感じのする椿である。妙辿卦は京都にある法華宗の守で、ここにあった椿というので、炒辿寿と名付けられたのだが、「余の花はみな末灯ない妙辿寸」と品1に、マグリット・ゴーチェ(女いう、茶人如心齋の旬がある。椿は品種の多いもので、年ごとに栽培する人の工夫によって、園芸変秤が増してゆく。朝頻や菊と同じ様に今後も珍らしい花をみることになるだろうが、ばいもの花の様に緑の花の椿があらわれたり、青色の椿が咲いたりすることが可能かも知れないが、椿としての限界もあることでの作あろうから、その中の伝統の名花と(瓶花)はしばみ白桁いわれる椿を、しみじみとみつめて日本的な品格を楽しみたいものだと息う。紺年、京都柏物園で「椿脳」が閲催される。四月下旬又は五会期であった様に111心う。一千秤近い椿の切り花が出品されるから、閲西在仕の皆さんは是乳ごらんになる様、おすすめする。(専渓)jJ土11月挿花旬が5 ...

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