テキスト1969
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「御題—ぎよだ丹後でこの流像を教えておられるH氏から、「新年の御題のいけばな」を教えて欲しいという手紙がきた。いよいよ今年も終りの12月になり、やがては年末、迎春の花をいける季節となった。私はこの「御題のいけばな」というものにあまり興味をもたないので、例年その頃になっても無関心に過してしまうのだが、さて、質問をうけてみると、具体的に考えねばならないのだが、これは一般的な問題なので、私の考え方をお話するよい機会かもしれないと、テキストの誌上でお答えすることにした。戦後は「新年の御題」なるものに御題のいけばな専渓国民的な熱意がなくなった様である。このごろの若い人達、ことに大学に通う学生達に、「御題」て知つてる?と灯問しても、知りませんねえ、と言下に答えるほど閑心をもつておらない。戦前の人達といつては語弊になるが、その頃の人々のあの昨敬と風雅の対照であった「御歌所御題」なるものに、興味をもたないのも、当然ではあるが。それはさておきいーーのいけばな」について考えてみよう。大体、御題というものは、和歌の題であつて、それに因んで、いけばなを作ろうとすることに、最初から無迎がある様に思うのである。例年発表される和歌の題には、いけばなの題として適切なものもあるし、そうでないものもある。いけばなを作るための「題」なれば、それにふさわしい顕を得なければ、よい作品が作れないのは当然である。牛とか猪とかの題の場合、どうして、いけばなに通じるよい意匠を作ることができるだろう。しかも、御題は例年定つて発表されるもので、いけばながこれに見習うて、年ごとに御題花なるもに苦心するのは、それ自体おかしいのではないかと思っている。作れる年だけ作る意匠花なればまことに結棉である。ただ、例年の御題のたびごとに、無理な判じものみたいないけばなを、これが「御題の花」として発表されているのをみると、なんだか淋しい気がするのは私だけだろうか。そんな意味で私は「御題のいけばな」に興味をもちません。しかし折角、おたずねのあなたに対して失礼だと思うので、今度の「新年の御題のいけばな」について、次の様な作品をおしらせすることにした。新年御題「口年」にちなむ花、(作品)白大輪菊一輪゜(花器)細口花瓶に入れる。天体の中に見える‘―つの星は白く大きく清らかに、私逹の希望の行くてを示している。私の家のかどぐちを出て少し歩くと烏丸通である。街路樹の。フラタナスの葉はすつかり落ちつくして、裸木の列が辿く小さくつづく向うに、御所の森がみえ、ずつとはるかに北山の連峰が横ならびにならんでみえる。12月も半ばの今日は、さすがの暖かさも、冷え冷えとした冬空にかわり、北山もすつかり吹雪にかすんで、下から上まで白一色にとざされている。やがて花背の山嶺に雪がつもる様になると、京都の底びえがはじまることになる。私の庭にある緑蒋梅(りよくがくばい)は、はやくも白いつぼみをみ花の美し、。せて、この分だと新年には開花がみられる様子である。先日米の暖かさに寒椿(紅のさざんか)が満開となり、あまりのわずらわしさに大分、花を落したが、佗助椿の白花も次々と清楚な花を咲かせて、次々と落ちて行く。私の家は古い好みの茶庭のつくりなので、咲く花もしずかに、わびしいほどの閑寂な程度がよいのだが、一度ににぎやかに咲かれてみると、いたずらにさわがしくておちつきがない。大体、私達の日本の習慣として、花は開花よりもこれから咲こうとするっぽみの花に魅力を感じるも(作意)のである。満開の華々しさはすでにその花が過去になった様な気持ちがして、興味を失う場合が多い。梅も桜も咲かんとするその前が美しい。咲いてはすでに俗と感じるのが一般の考え方ではなかろうか。日本の花はつほみの中に美しさがある。椿も菊も、小菊寒菊、かきっばた、はなしようぶ、ぼたん、しやくやく、ささゆり、すいせんなど、どれもっぽみと開花が二つあってこそ、うるおいを一層感じられるし、満開の花ばかりではなんとなくさわがしい気持ちがして落ちつきがなそれに反して洋花を考えてみると、これとは趣きが変つて、つぼみの洋花というのは、どうも感じがよくない様に息える。カーネーション、ヵュウ、アマリリス、アイリス、ガーベラ、マーガレット、デージー、洋蘭の類、どれを考えても大きく咲いた強い色の閲花、ここに洋花の美しさが感じられる。洋花は開花して色彩が盟かに見られるものであり、閲花してはじめてその花の形をそなえることになるのであろう。なお、面白いことは、日本の花は聞花すると、まもなく終りが近い。菊は開花してもなお長期にわたつて美しいが、その他の多くの木の花、草花は、開花するとまもなく終りとなるものが多い。これに比較すると、洋花は凋花してからが、はじめて、その花のほんとうの形と色を見ることができ、叫花してからがその花のはじめと息えるものが多い。日本の花と洋花との相辿はこんな点にもあるのではないかと息う。日本の花を見る心は、表面の華やかさだけをみるのではなく、かたいつほみのうちに、その風雅の趣味を理解し、木の実、枯葉の中に自然の描く美しさを見ようとする。それを風雅とし、いけばなにもそれをあらわそうとする。強烈な色彩と外形に変化の多い熱常地方の花に比較して、その花の見方にも、大きい相迩のあることに注意すべきだと111心うのである。花ことば、12

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