テキスト1969
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化花(せいか)は活花(かつか-ともいわれて、その字句のしめすように、草木が自然にもつ性格をいけばなの中にあらわすことを目標にしております。生花には伝統の形があり、技法もいろいろ複雑でありますが、伝統の形と自然の草木をどんなに調和させるかというところに、この生花の芸術が生れてくるわけであります。生花は伝統的な技法が定つておつて、作者の創作が認られないとか自然の花を一定の型にはめるとか、そんな考え方は誤りでありまして、真実の生花はそんな動きのとれないものではありません。大体、伝統芸術といわれるものは、古い時代の約束や技法が伝えられて、それを聰賃し、更にその基礎の上に作者が自分の考案を加えて作品して行くところに価値があるものであつて、古い時代のものをそのまま伝え習うものであったならば、これは伝承であつて慣例をそのままうけついだだけのものであります。伝統芸術は古い時代の優れたものに、更に新しい工夫研究を加えて、それを今日の芸術として価値をあらしめようとするところに意義があるのでありまして、これが伝統芸術の真実の意味であろうと息うのです。伝統のI花はことにこの考え方が必要であり、大体いけばなは、常に自然柏物を材料とするものであるだけ、植物の個性や自然成肖の形を相手とするだけに、自然草木の個性を無視してはいけばなは成り立ちませんし、伝統の生花といえども自然草木の形と、花道の形式との調和ということを常に考えねばならぬのは当然であります。生花というとお流儀の一定の型に入った作品、と考えられやすいのですが、私ども生花を活けるものにとつても、こんな平凡な習慣的ないけばなはつまらないことです。伝統の形や技法は、永い年間の錬成された芙の結品のようなものでありまして、私逹はその技法形式の上に、更に今日的な新しい工夫や、今日の世代に通用する感党を加えたいと思います。花器の丁大もありますし、取材のエ夫もあります。その上に伝統住花のもつ品位、これを大切にすべきだと思うのです。日本の伝統芸術は、能狂言にしても舞踊、いけばなにしても、完全な芸術に仕上げるのには、永い年間の純成と、刻苦の努力を要するものであります。知識や狸論で優れたものが出来るわけのものではありません。一人の名手を生むためには、永い歴史と背景がなくては出来ないことだと思います。私どもは伝統の立派さをよく迎解して努力を重ねた<思っております。(写頁)桑匝専渓(法師ケ舟)ー京都河村能楽幽にてーR化花R狂桑原索子R 8 伝統一言桑原素子@

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