テキスト1969
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専渓桑原頭記のように京都北ロータリークラブ(会長•井口海仙氏)例会において「立花のお話」をしました。当日は約70名ほどの集まりでしたが、奥田京大総長、千宗室氏、山鹿清華氏をはじめ、京都市在住の知名の人達に花道のお話をきいていただいたことは、意義深いことであったと思います。狂言宗家、茂山千作氏の御照介によって、約30分のお話をしましたが、その要点を同席しました桑原隆吉君の速記によって、このテキスト誌上に再録いたします。(江戸時代の絵巻、写本、作品写真など出品)花を活けてたのしむことは、随分、古い時代から行なわれた様でありますが、「古今集」や「枕の草紙」の中にも花瓶に花をさして、それを和歌の頻材にしている様子が記録として残っております。この時代にはいけばなの技巧のない、つかみざしとでもいいますか、そんな程度の素朴ないけばな以前の飾りばなであった様でありまして、形式的ないけばなが行なわれはじめたのは、室町時代に入ってからであります。それ以前のいけばなは自然のままに挿す、いわゆる投入れでありまし室町時代に入って仏前のそなえて、ばなから出発して、やがてこれが趣味の床飾りとなり、立花(りつか)の形式が定まることになりました。随つて花道のいちばんはじめのものは、この立花でありまして、桃山から江戸時代の初期には、自然の花を材料として、花道としての形式技術との調和によって、芸術的な優れた作品がつくられることとなったのであります。立花以前の投入れ挿しは、そのころ、すでに盛んであった茶道のためのいけばなとして、そのまま延長して、いわゆる「茶花」として今日に及んでいるわけであります。つまり室町時代において技術的ないけばな「立花」と、一方に素朴な風雅を楽しむ投入れ挿しの茶花の、二つにわかれたことになります。立花は(りつか)又は(たてばな)と呼ばれております。ここに展示しております絵巻の作品が、その立花でありますが、ここに面白いお話がございます。数年以前のことでしたが、私の知人のいけばな研究家が京都北山の曼珠院(まんしゅいん)に参りまして、門跡に「りつかの古書」を拝見させていただきたい、とお願いしましたところ、この寺には「りつか」の古薔はない、あなたのいわれるのは「たてばな」だろう、と一喝されて恐縮したという話をきいたことがあります。まったく、「りつか」ともいい、「たてばな」とも呼ばれ、どちらでもよいわけでありますが、ちょうど立花の始まった室町時代に「能」と「狂言」が発生しておりますが、この能の中に「はじとみ」という曲があります。この能は、すでに亡きタ顔という女の霊をとむらうために、立花をたて(立花は活けるとはいわないで、立てるといいます)後生を祈ります。と、夕顔の霊があらわれて物語りをするというすじがきでありますが、これが演能されますとき、舞台になまの花で立花を作ります。観世能楽堂で池坊さんがお立てになったこともありますし、私もたのまれて作ったことがございます。.. この「はじとみ」のワキの言葉の中に「うやまつて申す立花供荏の事」という詞章があります。ここで「りつかくよう」という言葉を使っており、また、その曲の中入前に「たてばなのかげにかくれけり」という言葉もあります。「りつか」と「たてばな」のふたとおりの言葉をつかつている訳であります。また、狂言の中に「真奪」しんばい、というのがあります。これは、そのころすでに盛んであった「立花の会」りつかのえに、その材料を採集するために、大名と太郎冠者の二人が山へ行き、自分のつくる立花の作品の「しん」をさがしに行くわけでありますが、その材料採集を題材にして狂言の舞劇が展開してゆくわけであります。この「しんばい」の中ではすべて「りつか」という言葉を使っておりますが、この狂言には立花の会といい、材料採集といい、その当時において、立花がひろく趣味の花として作られておったことが、うかがわれるのであります。現代になりましても、私どもは立花の材料を採集するために、各地の山に行きますが、この狂言の様に「真」の形のよいものをさがし廻ることも再々ございます。六00年以前も今日も、趣味の道には変りはないものと、つくづく感じる次第であ6 8月9日・京都国際ホテル京都北ロータリークラブ例会において(テーブルスピーチ)要項•••• 立花のお話

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