テキスト1969
100/147

私の二十幾オというころ、友人の姉さんに小松某という画家があった。家どうしの交際なので、おたがいにゆききして謡をうたったり、写真の自慢をしたり、花を教えたりという、その弟さんとの交際が随分、ながかったのだが、あるとき、雑談の中で「絵がわかるのには、早いところどうすればよいのか」と、その姉さんの閏秀画家に質問をしてみた。ところがその画家さんの返事が単刀直入、ずばりそのものであったので、「なるほどねえ」と感心したことを覚えている。「画がわかるのには、なにより画を買うことですね」というのである。あまりはつきりしていて、言葉のつぎ穂のないほど要点をついた言葉なので、その後、ときどき思い起して「まったく」と、ひとりで笑いをかみしめることが度々とある。その後、四十年あまり、自分の気に入った絵さえ買えない私であって、折角、教えを垂れて呉れた小松女史には申訳ないことと思つているのだが、仕事の関係上、陶器の花器を買うことが多くなり、陶器については永年の顧客ということになり、自然、そのよしあしや、品種について大体わかる様になったと思つている。私の陶器の買いものは、かなりの年限と数量において、千個にも及ぶほどだから、上物下物をとりまじえて随分買いあさったことにもなるし、自然、陶器の品種、名前、作家の作品と個性、大体の値段など、素人としては大体、わかったということになつて、この女流画家のいう「まトリトマずお買いになることですね」といった言葉を、絵ではなく陶器で体験したことになる。花器といつても範囲がひろいが、数千円のものから数万円もする花器がざらにある。よくない考え方だけれど、自分が数万円も出して買った花器にはそれなりの愛若もあるし、金を出すという実感が、陶器のよしあしを考えるという真剣さもともなうことになり、ただ、展翌会でみるだけというのとは、見かたが違うことも事実であり、まことに遺憾なことながら「買わなけれトルコ青壷専渓ば解らない」という言葉に通じることになる。「ものを大切にとりあつかう」ということは、茶道具の場合はいうまでもなく、花器の場合も、その他、家庭にある多くの器具を扱う上に必要なことである。ここに兄弟があるとする。兄さんAがかねてから欲しいと思つていたものを買つてもらって、毎日々々大切にしておったとする。弟のBが兄の大事なものを粗末に扱つてこわした場合、兄のAは火の様になつておこる。よく家庭であることであるのだが、苦心のすえ買つてもらった自分のもちものを壊された場合、激怒するのは当然である。これと同じように、自分のあつめた花器には、それに対する愛希が実に深いということである。さきの訓家の言葉をひいて言えば、花器がわかるためには自分が買うことである。そして、はじめてそれの大切なことがわかることになる。茶道に熱心な人の中には茶室に用いる道具に対しては、習慣上、丁寧に扱いながら一般的な家庭の道具に対して、案外無関心な人が多い。私の多年の経験によって茄切に感じていることであり、あの人は茶人なのに、と思うことがよくある。花に熱心な人でその作品のためには一生けんめい努力している人で、さて花器には理解のない人が多い。その様な人は一個の花器に数万円をかけるという様なことを知らない人に多く、名作の花器も平凡な花器も区別なく、ただ活けるのに形がよければよい、活けやすければよいという程度の人で、この程度の人は真実のよいいけばなは作れない、人である。花器をよく理解して、その花器を引きたてる花を活けるためには、買うことも大切である。格好だけで見る程度の人は、花を活ける趣味の人として、まことにはずかしいことと思っ。花器を買うとか価値がどうとかのお話をしたことになるが、せめていけばなに関しては、それぐらいの理解がなくては、いけばなを知ることにならない、ということをいいたいのである。若い婦人の人逹には日本の古い美術に対して理解のない人が多い。美術館などで「00の美術」などと格附された展覧会などには、鑑賞に行つても、そんな標準を示してない一般の家庭にある古い美術作品に対しては理解しようとすることが少ないと思う。日本の伝統美術は一般家庭の中に保存せられるものが多い。折にふれてよきものを見る機会に、それに理解を向けようとする努力が人切である。現代の美術を知ることと同時に古い伝統美術に対して正しい理解を向けられる様に望みたい。知ること専渓12 画乱

元のページ  ../index.html#100

このブックを見る