テキスト1968
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降りみ降らずみの八月末のある日、久々で大徳寺塔頭の寺々を訪れた。芳春院の桔梗はすでに終りがたであったが、しつとりと雨にぬれた庭の苔が目にしみる様に美しい。附近には大仙院、黄梅院、高桐院、竜源院など庭園と古い建築のたたずまいがよく調和して、つくりだしている。静寂な境地を紫野大徳寺は臨済宗の総本山であつて、元応工年(-三一九)大燈国師の創立による禅寺である。応仁の乱で焼けた後、一休禅師が復興し、織田信長の葬儀がここで行われたのは有名である。15世紀から17世紀前半に至る優れた襖絵その他の美術が多く蔵されている。芳春院の長い石悩を歩いて表門を出てすぐ、この写真の道を歩く。ひつそりとして人影の見えないこの道、幽静の境地である。降る雨に少しかすんで見える松の老樹が、一しお高くそびえて見える。傘をさしかけて小西氏が写真を数枚とる。花材蓮の古茎五葉松ざくろ無我静寂の境地の中に、雑念をつつしみ心の修養をする、煩悩をはなれ精神の統一をはかり、人生の真理を見とおすこと。「禅」とは中々むづかしいものである。茶道と禅とは伝統的に深い関係にあるのだが、いけばなと禅とは歴史の上に直接的な関係は少ない。さて、大徳寺という題をすえ、いけばなを活けることになったが、まず、禅の寺にある古雅な風格と脱俗の境地を花にあらわすこと、外見の美しさよりも内容の深いもち味、静かに高雅な調子、渋い味わい、落貯きのある花材の選択、そんな点に注意しつつ活けることにした。花材は、花の咲く材料を使わないこととした。五葉の松の緑、ざくろの黄褐色の実、蓮の枯れた茎と実の禍色の三種を取り合せて、花器は大振りの黄土色の変形の陶器を使った。これらの配合は、なんとなく、禅の寺の静寂の境地をあらわす様に息えるし、瓶花としても異色のある作品といえる。ただ彼味のある瓶花というだけではなく、作品の中に強い特殊なもち味があり、このもち味は禅寺の古雅幽静に通うものと息う。写真にある雨にぬれた禅寺の追、この風景と私のいけばなの感じが調和するか、いささか疑問ではあるが、いけばなだけを切り離して見ても、特殊な味わいがあり、花器のずば抜けた面白さと調和して‘―つの香りをもった作品ではないだろうか。禅寺と花という題を設定して、全く苦吟したのだが、結局は、禅のもつ内容的な深さと、内在的な美しさをもついけばなの中に、一致点を考えて、この作品を作った。どうもむづかしいことになったものと、いまだに苦吟をつづけている次第である。8 大徳寺

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