テキスト1968
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言葉がJJJuUし縁側に座つて庭を見る。立つてみると植込みの樹の形がよいのに、座つて見ると、木の足もとがすけて、形がよくない。下枝の形の悪いためだろうが、またこれは庭の広さにもよるのだろう。立つて見てもよく、座つてみても裏の見えない様なバランスのよくとれた庭であることが、まず第一条件であるに迩いない。いけばなでも、庭でも、士方から見おろすと美しく見えるのが普通なのだが、いけばなの場合には、特に下から見上げる様なかけ花、つり花などがあり、見る位附を考えて活けねばならぬ場合が相当多い。袢室の様に立つことの多い場合の化は、見る位憐もほとんど一定することになり、活ける方も楽なのだが、見せるいけばな専渓座敷の場合には、見る位四が立つて見おろすこともあり、座つて見る場合もあり、ということでは、花の位岡がどちらに目標を管くか、はつきりしない。るものだ、と定つておるのだが、そうもいかない場合があり、その●、花器からどの程度はなれて見るのかによっても形が変つて見えることがある合と、出米上つて楊所に据えてからとが、同じ状態で見られることは、ほとんど少く、これは特に注意をして、飾りつけてから訂止する必嬰が起つてくると、見やすい形に作ること、これが必要であり、その配忠がないとどんなに|手に活けても、結呆的にはよくみえないということになるから、勿論、和室のいけばなは座つてみそんな次第であるから、活ける場要は楊所によく調和しているこ..ま注意せねばならぬことである。上手な人は活けるとき、自分の位附で形よく仕上げて、その次に、少し距離をはなれて座つて見なおし、ほとんどの場合、下枝やみずきわの花葉がすけて見えるのを、もう一度、下部の修正をする。高い位他の花はこの様に下部のさし加えをするのが普通となつている花器が刹い位11にあるのと、普通の花を少し遠い距離から見るのと、その角度がよく似ているから、特に花の下部みずぎわについて裂の出ない様に考えることが必要である。これは、庭を座つて見るのと立つて見るのとの相迩の様に、名作の庭はいずれの場合にも災のない紅応がされており、いけばなでも巧みな作品はどんな楊合でも、裏の出ない様に作られている。―つの道をやり通した人は、なんとなく話の中に、珠玉の様なよい―ー―-r葉を残すものである。この流儀の長老であった故村井股仝氏のあるときのお話。「花というものにも当然、競争心がつきまとうものだが、自分と人とを比較して、自分より技術が拙い息う人はまず、,目分と同じ程度のうさと思って誤りはない。また、自分と同等のうまさだと111心う人は、はるかに自分より上に位する人である」こんなお話をきいたが、私はそれから三十年もたった今日でも、その名言を繰返し味わっている。若山牧水の歌だったかに、山に登れば登るほど富土山はなお高く見える」という意味のものがあったが、芸術というものは、高くなれば高くなるほど、ほんとうの高さが見えるものだと思う。能の世阿弥の「花伝害」の一節に「いかなるおかしきシテなりともよき所ありと見ば、上手もこれを学ぶべし、上手は下手の手本、下手は上手の手本なりと工夫すべし」という言葉がある。下手なシテの中にも見るべきところがあるに違いないという、いましめの言葉であるが、また、下手の中になぜあの様に欠点ができるのだろうと考えて、わが身の反省のための手本となる、というそんな気持も含まれているものと思われる。これは、ただに能の害葉だけではなく、私どものいけばなにも直接に通じる言葉であって、自分の花は自分の花だけでなく、相ともに学ぶという教えの言葉と同じである。さきの村井脳全氏の言葉とその表現はことなるが、同じ様に、稽古のいましめの言葉と解釈すべきだと息う。「高いこの「花伝書」の中に「離見の見」ーりけんのけん—|ーというある。能舞台で演能するシテが、自らの姿、形を見ることはできないが、常にみる人の位置に心をおいて、自分の舞姿を見る用意が必要だ、という意味なのである。もとより、能は舞台芸術であり、いけばなは美術作品であって、向接的には性格が辿うのだが、さきにのべた様に、自分の作ったいけばなを人に見せようとする垢合に、常に見る人の位附に心をおいて花を活けるということが必要、というのと、これも相通するところがある。他の人が見て、これはよいいけばなだな、と憾じる様に見せるのには、よほどの優れた技術がいるものであるし、普通は、自分の花を作るためには自分だけの心を使って、いわば自身の見る花を作るのに、せい一ばいということになるのだが、その上に、自分を離れて観者の立場に立つて「よい花だ」と悠じさせるのには、作者の心の中に十分の余裕があり、技術への自信があつて、はじめて「見せるいけばな」を作り得ることになるのだと思う。いけばなも能も、その深奥の美は、それを演ずる人、活ける人の心の高さによってあらわし得るものであるから、永い年月の研修によって真実に行きつく様にしたいものである。と. 12

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