テキスト1968
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tヽけばな40センチ程度の大きさであるから、全ここに掲載した写真は、「藤づる、モンステラ、ためとも百合」の三種の賄花で、普通のものとは特に大きい大作の花である。材料自体が三つとも大きい材料であり、モンステラの葉は横巾体は随分大きい。こんな大作の花は、花展に出品の場合か、特別に広い場所に飾るための作品で、活ける機会も少いのだが、大作は大作としての考え方もあり、大作の面白さもあるのでこれを話題にしてみる。大作は小作の引伸しではないと、お話したことがあるのだが、花器が特に大きいから材料を特に多く用いる、活ける場所が広い、などの条件によって、自然、大きくなる作品、こんなのは真実の大作の正しい考え万ではない。材料によっては大きく活けないと十分の作意が出ない場合がある。呆壮な感じを作るために大作を活ける場合もある。そして、その作者の気持はどうしても大作でないとのべられないという場合もある。優れた大作には技巧の重厚さから感じられ深奥な味わい、大作からうける力弥い迫力、複雑な色調のテクニック、これは大作でないとどうしても見られない特殊な感じのものである。もつと具体的にいうと、例えば5本の百合の花を挿す場合とる場合とを比較して考えてみよう。―つの花瓶に挿した5本の百合は大変すがすがしく、淡泊な味わいがあつて十分のいけばなとなる。また同じ百合をに入れたとする、この場合、ただ30木30本の同じ百合を活け‘―つの花瓶数が増しただけなれば賑やかになった程度しかその意味がない。反対に分量が多すぎて嫌悪な感じのする場合もあるに違いない。しかし、このの百合のいけ花は花型も大きく、勿論、花器もたっぷりとして、その花型は特に奥行と前の出を深くして、花の高低、沈みなど自然に植生している様な重厚な感じを出すとすれば、これは、5本や10本の百合では作り得ない大きく棗快な場面を作ることになる。その一っの大作品をよく見つめると、仝体としても力強い作品であり、大作なればこそ出すことのできる複雑な技法もあり、場面のつみ重ねがある。つまり、大作は普通の場合とは迩った考え方と特殊な技術が要るということである。大作は小作の引きのばしではないというのは、ここのことである。さて、ここに掲載した「藤づる、モンステラ、百合」の瓶花を、以上の考え方をもつて見る。大作として味わい深い作品であるか、大作なればこそという、特殊なものがあるかどうか、その点から作品を批判する必要がある。これは皆さんの批判にまかせよう。写真をよく見て考えて下さい。30本• 毎月1回発行桑原専慶流No. 63 編集発行京都市中京区六角適烏丸西入大作の桑原専慶流家元1968年8月発行専渓いけばな-,~)

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