テキスト1968
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々とみえます。京都市にホームビジットといつて、外人を私達日本の家庭に招待して、るとともに、一種の市民外交をやろ最近、私の家へ外人のお客様が度遠来の観光客を慰めいけばな専渓(ばらの小品花)うという大変よい制度なのですが、私もこれに加わって随分年久しくなります。私の家は生花の家ですから、花を活けて見せるのですが、ほとんどの人は伝統の生花に興味をもち、自分達のアメリカ、ヨーロッパのいけばなと比較して珍らしがるのです。これは当然で、私達でも旅行した場合、少しでもその土地に特徴のあるものを見聞したいと思うのは人情でありますが、この場合はただそれだけではなく、に生花)と自分の国のいけばなとを比較して、その考え方や作り方に大変相違のある点に深い興味をもつものと思います。外国のいけばなは外面的に美しい花を数多く盛り込んで、けんらんとした華麗さを美しいとする様でありますが、これに比較して日本のいけばなは素朴な趣味といいますか、一輪の花の中にも、花の咲いておらない樹枝でもいけばなとして美しい感じをあらわすことができますし、その中に清楚な趣味を感じることができるのであって、この辺が外国のいけばなとはよほど迩うところであろうと思います。椿を―二輪、竹器に挿して、これをいけばなとして楽しむ、また花器の水を美しいものとして見る日本人の高雅な趣味は、ことに特長があると思うのであります。この日本のいけばなは、茶道の静寂の心と通じるものであって、日本人の幽玄を理解するその心のあらわれであるし、また風流を楽しむ心でもあります。室内装飾にしても座敷の床の間には懸け軸に小品のいけばなでこと足りるのですが、西洋の習日本のいけばな(特慣として室内には懸け額をいくつもかけ、絨緞を敷き、棚には数々の装飾品を置きピアノがあり、装飾的な椅子テーブルなど、随分装飾が複雑であります。いけ花もこれに相応した賑やかな形式となつて、それが一般的なのですが、日本の座敷にある簡潔索朴な装飾と比較してみると、大変な相違であります。最近、アメリカにおいて日本のいけばなが流行していますが、これは日本人の生活の中にある素朴な美を、よき意味に理解されているものと思うのであります。私逹日本人は欧米において発達した機能的ないわゆる機械文明について、学ぶところが多いのですが、また同時に日本の生活の中にある索朴な美のこころを大切にしたいものと息つのです。小量の花材によって深い慇じをあらわす日本のいけばなは、その中に季節感や自然の情趣を、またそのいけばなから詩趣を感じ風雅をくみとろうとするものであって、外国のいけばなと日本のいけばなの相迩するところは、ここにあると思うのです。私達は花を活けつつ、そのいけばなに、作者の心をのべ得るような、そんな花を活けたいものと思うのです。私達の生活と私達のこころをそのままに持つている日本の花道は、日本の大衆の中にしつかり根をおろした芸術といえましよう。... 毎月1回発行桑原専慶流No. 62 編集発行京都市中京区六角通烏丸西入桑原専慶流家元1968年7月発行いけばな

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