テキスト1967
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自然の静寂の中に、ものの美しさをみつめようとするこころ、伝統と人生の中に深い哨紹を汲みとろうとする考えかたは、私達日本に生れた多くの人達の心の中にもつている、あこがれの思想であります。また、優美、繊細の情緒をよく理解し、それを生活の中に活かそうと試みたり、多くの芸術の中にその考え方をとり入れ、その感情の上にあらわそうとすることは、日本の伝統芸術の特微ともいえましよう。晩秋のこのごろには、野原の草の葉の紅葉をみて、季節のうつり変りを息う心、早くも咲きはじめた椿のいけばなに、初冬の静けさを味わうこころ。私達のいけばなの中にも、それを日本的な美しい梢趣として、楽しみ味わう心をもつております。これは日本の伝統的にひきつがれてきた、美しきものへのあこがれの精神であつて、日本の風土と生活と、季節の中に育つてきた最も日本的な性格の一っともいえましよう。古い言葉の中に「幽玄」という言葉があります。「わび」「さび」などの日本特有の言葉とともに、日本の美を表現する代表的な言葉でありまぷケすが、私どもは、茶道や花道に折にふれて使われるこの言葉の意味を、案外、そのままに見過していると息いますので、ここでは「幽玄」について、一般的な程度のお話として、考えてみようと思います。幽玄という言葉自体が、すでに古い伝統と、なんとなく近よりにくい感覚をもつておりますが、日本に古くより伝つて来たいろいろの芸術の中によく出てくる、この言葉を考えて見ますと、幽玄とは伝統芸術の、最高のはるかに奥深いところ、微妙で深遠な楼地をさすものであつて、容易に知ることのできない深い趣きとでもいいましようか、それは味わいの尽きない深遠の境地をさした言葉であります。そして、その中には静かな美しさがあり、やさしく繊細な咸罪mととけあって、そこから「わび」「さび」などという静寂な境地に通じる心をもつております。いいかえれば、深く深くわけ入り、その上の微妙な美しさにふれようとする心であり、この考え方は、日本の古い芸術の中に、いろいろ所をかえて流れている精神でもあります。茶道、能、花道などは、特にその考え方を諄菫して成り立つておりますが、これは、形式でもなく、技法でもなく、それらの技術的なことを全部なし尽した、その上に、匂つてくる高い塙地であります。この幽玄の境地は、それを作ろうとして得られるものではなく、芸術をなし尽して、自然に生れてくるその作者の体臭の様なものであって、見る人に深い咸心動と、弛い印象を与える性質のものであり、自然、作者自身だけのものではなく、見る人逹とともに、その感動をわかちあう性格のものであります。能楽の祖といわれる、批阿弥(せあみ)は、その伝書、花鏡の中で「我と工夫して、その主に成り入るを、幽玄の協に入るものとは巾すなり」といつておりますが、また、幽玄にしようと思うことがいけない、ただ正直に索直な物真似(自然になりきること)によってのみ、幽玄の風体が生れるものだともいつております。これは花道の場合も同じであって、修捉に修旋を電ねて、上手練逹の上に、主れてくる気品と余情の様なものが幽玄の趣ある花、ということになりましよう°従って、よいいけばなを作ろうとか、またどのくらいその作品がよくとも、上手逹者の範囲からは、幽玄の味わいは生れないものです。以上の様に、幽玄とは、日本の伝統的な味わいの中に、静かな、極端にいえば、「かぽそい」情紹のものでありまして、今日のいけばなには伝統的な考え方を中心として作られる作品と、その反対の一面には現代的な明るい形式のいけばながあることを知らねばなりません。伝統のいけばなというと、立花と生花と限定されやすいのですが、例えば、荊花の中にも、幽静な慇じのあるいけばな、椿の一種挿、すすきに菊の投入花、牡丹の一秤挿の様に、色彩的な花でも静かな深い情趣のある花は、そこから幽玄な日本的な味わいがjれるものです。これに反して、明るい洋花を材料とするいけばなに、は静さがあっても、それは幽玄という様な性質とはかけ離れた、今日的ないけばなであつて、またたとえ材料が梅、つばき、牡丹、菊という様な日本的な花材であっても、花器と形式によって新しい慇じを作り出すことができるものでもあります。まことに、日本の仏統芸術の中にある幽玄は、認霊すべき性質のものではあるが、いけ花には同時にその反対の面のあることも考えつつ、そそれぞれの正しい理解をもつことが必要であります(専渓)7 玄1幽翌さ

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