テキスト1967
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賀茂なすび(画)今年の夏は八月に入ってから、ことに暑い様に感じられる。今日、上賀茂の谷先生より「賀茂なすび」を頂戴する。農家につかう野菜篭に、野原の雑草を三種ほど下専渓じきにして、片手では持ちかねるほどの大きさの茄子を10個ほどつみ重ねてある。剪りたてのなすの濃い紫紺の色が、つやつやとしていかにも新鮮である。きずのつかない様にとの心づかいであろう、篭の中へ、いのころぐさ、つゆぐさをうず高く入れて、その上にどつしりと茄子の紫が、盛り込まれている。朝露のある時間なので、露草の淡い青色の花もいきいきとして、いのころぐさの野趣がみずみずしく見え、茄子の色の美しさと調和して、実に風雅である。茄子のみごとさもさることながら、手近かの雑草をともに盛り込んである、その風雅なすがたは、そのまま、すぐれた飾りばなである。古い日本両に見る様な索朴な味わいを、とにかく、その姿のかわらないうちにと、ありあわせた筆をとつて、拙い絵とは承知しつつ写生したのがこの絵である。雑然とつつ込む様に下じきにした二柿の草が、そのまま盛りばなの形になつており、陪りぬしの心ばえも感じられて、ひとしお嬉しく、楽しい。茄子の花朝の心あたらしくみどり女袖りテキストに「鑑賞果」について小文を書いた。さて、この茄子の盛り篭を見ながら考えられるのは、「鑑政呆」という飾りものはいうまでもなく、いけばなでさえ、その出発は、芙しい自然のうるおいを鉢に盛り、器物に括して飾るという、極めてそほくな、それは実用ともいえる装飾を目的としてはじまったものである。段々進歩してくると、それが美術としての考え方や、その技法形式が今日の様に発展してきたのであるが、そのもとをただせば、日然の花の美しさを花瓶にうつすという、そのことが肝心のことなのである。気持よく美しく活けることができればそれでよいことであって、ちょうど、この「笠茂なすび」の盛りものの様に、わざと粧うことなく、しかも、それがはからざる美をなしている、というのが、いけばなにも望ましい。ほんとうの心といえる。茶の粕神もこれと同じであろう。形式はともかくとして、自然の必要の中に、美のこころを盛りこむ、といった、そんな考え方が、茶やいけばなの出発点ともいえる。私逹が花を活ける場合に、形式はとにかくとして、誰れが見ても、なんとなく気持ちよく見られるいけばなを作る、これが最も大切なことである。更に、花を活けるときには允分心をつかいながら、でき上ったものは、ほんとに自然らしく、糸朴な地じに見られる、そんないけばなが最も卜[手ないけばなだともいえる訳である。洛北の名物「加以茂なすび」は京部に永く住むものにとつても名品である。しかし今、私はこの篭盛りをみながら、いかにも素朴な飾り方の中に、いけばなの風雅を生地(きじ)のまま見るような、そんな感典さえもうけたのであった。竺屎闘... 毎月1回発行桑原専慶流No. 54 編集発行京都市中京区六角通烏丸西入桑原専疫流家元1967年9月発行いけばな

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