テキスト1967
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。' ③普通の花堺ではなくて、呆もの篭、洋洒びん、ガラス食器、手提篭などの実用器物のうちに、形も面白いし色も芙しい容れものが、どの家厖にも、考えればなにかあるものである。たとえ普通の花器が沢山あっても、時には息いつきのこんな器物に花を人れてみるのも、また、楽しいものである。そんな意味で、お台所の棚から見つけ出した容器に花を入れたのが、これである。ー。ヘージに「しらぼしかゆう」を活けた買もの用の手提篭、これは、あけびの蔓で作った篭で、花器として上品な咸営しに見られ、充分の役目をはたしている。この。ヘージの写真の①は、ビニール製の野菜人れの篭で、深めのガラス皿を人れて、盛花風に活けてある。しやがの葉、あじさい、ききようの三種である。人れ方が上手すぎて感心しない。もつと、ざつと入れるのがよい、まじめすぎては面白くなは談いワイン色のコッ。フを三つ重ねて、それぞれ花が入っている。これは冬の花で、さざんかの紅、洋岡の淡紅、ゴムの葉の緑である。コップを三つ砧んで、意匠的な飾り花としたのだが、これも一っずつで結構、さざんかだけのコッ。フも又しいし、らんだけでも美しい。或はさざんかのコッ。フと、ゴムのコッ。フを二つ並べて9直くのも災しい。とにかく、こんなに考えて、改めて戸棚の中を見まわすと、案外、いろいろな美しい器物が目につくものである。叩興的に軽くつつ込んで附く様な花がよい。あまり上手に括さなくてもよい。簡単な気持で活けたというのが、最もよい。この際は、へたな花の方が妬しい気持がする、と息う。この写真2枚は堅くるしく、面白くないのだが、原稿の締切に辿われて、とりあえず掲叔した写真である。あらためて、そんな気持で応用花沿の花を作ってみようと息つている。応用花器という言梨は、花器として作られたものでない容堺を利川するという忍味であるのだが、容れものなれば、どんな器物でも花が人るという、そんな気持ではなく、その1に雅趣があるもの、災しい砥じのもの、品(ひん)の悪くないもの、花を入れて美しさを感じるものでありたいと111心う。ここにも選択の考え方がいるわけである。私逹は脚いたいことがいろいろある。害逍も、お茶も、花も秤いたいし、また視在、それを刑いつつある。同じ期間、先生のもとへ通つているのに、早く上逹する人と、上述のおそい人とがある。これはどういうわけだろうかを考えてみる。頭のよい人でもいけ花の下手な人がある。特に技術的なものをつくるのに才能のある人もある。知能の問囮ではないが、その人その人の特質によって、年Jjを直ねていくうちに相%なへだたりを4じることは致し方がない。上逹のおくれる人について、なぜだろうかを考えてみると、まず第一に気のつくことは、その人逹は研究心の足りないことが挙げられる。自分のいけばなをよくすることは、変するにの問題であって、日らが研究し、先生のよいところを少しでも早く取得しようとする熱心さがないと辿歩がおくれる。ただ没然とお桔古に通つていたのでは、遅々として進まない。先化がどんなに然心に教えても進歩しないのは当然である。お義狸のようにおけい古楊に通つている人、よく休む人、研究心の足りない人は、進歩しないのも当然である。目分をつくるのは日分である。折角、時間をかけて習う以上は、熱心に正しい玲古をつみ菫ねられる様に希望する次第です。習う人達の態度rl分8 応用花器、お台所用品の野菜篭を花器に使つて赤紫のガラスコッフ゜を意匠的につみ重ねて

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