テキスト1967
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生花⇒さて、風雅という言菜は、それほど粕極的な性格をもつものではなくて、その風雅な性質をもつ作品そのものの内容は、深く味わいのあるものであっても、それを見る人逹が静かに自然を味わう程度に、きわ立つて華麗なものでもなく、強くするどい感覚をもつものではない。たとえ力のこもった作品でも、その美しさは、内にふくまれて、例えば、いぶし銀の様にきらびやかでないところに、風雅の芙しさが認められることになる。罰仙に「内にとる」という言葉がある。一章の句を発声する協合に、口の外に出る発声を静かにおさえて、その感恰をより血芸かにあらわそうとする、例えば悲しみの言葉、うれいの言築など、こんな発声方法をとり、その中に幽玄雅致の表現をとろうとする。風雅の心というものは、およそこの様に枠かに内容の深い意味をもつものである。また転じて考えれば、いけばな自体、いけばな全体が、(新しいものも含めて)どれもみな、花を活けること日休が風雅であるIとも考えられるが、今日のいけばなは、材料の秤類、花沿の変化、用途の範間などから考えて、行為そのものは風雅であっても、fl品自休は複雑な用途と方法にわかれて「風雅な趣味」としての部分は、その一部とも杓えられる様になった。例えば、ここに化花の技術がある。仕花は伝統的な型があり特殊な技巧があって、牛花を作ることは風雅であっても、さて、よい作品を作ろう材形花花とするには、風雅などという、みやびやかにやさしい言葉では、すますことのできない様な、むづかしい技術の鍛錬と、粕神が什れする。従っていけばなでは、「風雅ないけばな」というものと、というものとを、二つに、別個に名えて、勉弛することが人切である。前ページからのつづきの様な話となったが、いずれにも関係の深い話なので、。ヘージをのりこえて記してがいくことにした。この。ヘージの写冥「さつきの小花」について鮒説する。このさつきは、淡紅の大輪の花が数多くみえて美い材料である°瓶花盛花にも適当な材料であるが、枝振りのよいものを選んで、大枝五、六本を使って活け上げた。かなり厚味のある大作で、日然のままの形を利用して、背は低く、横ひろがりに活けたが、さつきの個袢として、この様な柚にたっぷりとした形が、その慇じが出て、11然らしくてよい。枝幹がかたくこわく、折れやすい材料であるから、ためることなく、そのままで枝菜をきりすかして、足もとの寮りあいのよい様に、その糾み合せ方にいろいろ工夫をした。葉の多いところは適刈にすかして、枝葉をはらい、写真でみる様に、花形の間にすきまを作って、枝線の「技術のいけばな」見える様に考えたが、この材料は花菜のすきまに幹がみえる、そこに日然のさつきらしい味わいがあり、一面に菜でかくれるのはよくない。ためのきかない材料なので足もとを寮せ合せるのに苦心したが、ここが大切な技巧のあるところであるから、すきのない様に注意して作った。この花形は草(そう)のうち、風な味を見せる。(草のれ花形)で副も長く、真は低く横ひろがりの形が、普通とは大分変つている。留の中からのびた枝があるが、これを切らないところに、11然さがあり、胴の下の細い小枝とともに、切らなくてもよいのかと、疑問をおこして迷うのだが、この自然の小枝を残すところに仏花の花犯と、自然の個性とを、どの程度に結び合せるかーーの問題がある訳である。6 'H然... さつき右勝手草の花形のB(草の行)

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