テキスト1967
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c松の小枝1本に、やはずのかや(段すすき)た小品瓶花である。これも山で採集の松の小枝なのだが、足もとがまつすぐで、花瓶に入りにくい。足もとをまげ、入りやすくするために、下から10センチ程度のところをガスの火であぶり、柔らかくなったころを見はからって、ぬれ手拭で曲部をつかみながら、かなり/ ー、.▲、ききよう4本を添え強くまげる。そして曲げた松の足もとを握ったまま冷水につける。三、四分程度つけてあげると、足もとは「おれ釘」の様に曲り癖がつき、入れやすい形を作ることができる。この写真の松は、そんな工作をして、足もとをためて花瓶におさめた。花器は赤褐色の陶器で、軽い感じの花瓶なので、この松にすすきの様な軽やかな材料が謁和する。かやの葉をのびやかに左右前後に出して、これでひろやかな花形を作る。ききようの白花と紫花をまぜて4本、少し前へ傾けて括したが、この3種の材料が清楚な感じに調和して、仝体が上品に軽快な形にまとまった。六帖ほどの小問の床の間によくうつるし、ふん込みの板床などに、しつくりとする瓶花といえる。雅趣とは風雅な心、という意味である。風雅とは風流を楽しむ心、平和を楽しむ心であり、勇壮進取の粘神とは反対の、やさしい心をもつ平和な美を愛好する精神、その様な心から出発して、自然を愛し人を愛し、芸術を愛し、その上に高尚な趣味を養おうとする考え方、それが風流であり風雅と呼ばれる精神なのである。その昔、武勇祉略の武家政治の中に、その活動的な日常生活の裏c 側に、詩文を愛し、茶道や花道をc D あじさいたしなんだのは、平和を愛し、静かな風流を生活の中にとり入れようとしたものだ、といえる。美を楽しもうとする心であるがゆえに、今日の新しい芸術の枯極的な考え方とは、大変なへだたりがある。一口に言えば消極的といえるほどの自然耽美(たんび)の粘神である。私逹のいけばなは、風雅な趣味と一般的に考えられている風雅という粕神は、除かに自然が、これはいけばなの中の一小部分であつて、新しいいけばなは、単なる風雅のみではなく、もつと秘極的な況代美術の粘神を盛り込もうとする態度をもつている。しかし、その一面に、自然の美を静かに楽しもうとする、風雅ないけばなも、部分としてもつている。それが「雅趣のあるいけばな」ということになる。ここにかかけた二つの作品は、そんな意味の雅趣のあるいけばなの作例である。5 \ やはず桔梗すかし百合D 雅趣松

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