テキスト1967
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10 0トンぐらいの小さい汽船で、はじめて撫掟の町へ行ったのは、四十数年以前のことだから、私の記憶もほとんど薄らいでいるのだが、8時間ほど乗つて、鳴門海峡に入り、船はやがて岬をいく曲りして、なく狭い水道へ入って行った。岬の丘の間を急流の様に、蒼い海が流れこんでいるその水道を、この小さい船はエンジンをとめて、早い潮に乗って傾きながら流れて行く。古い地名では板野郡撫養町といったその辺は、その頃、まだわびしい僻遠の町であった。流れて行く船の甲板に立つて、広い川の様な沿岸をながめると、麦畑の中に村落があり、小学校の運動場で子供達が群つているのが手近かに見える。雲雀の鳴く様なよい時候であった。古い木づくりの粗末な桟橋におりると、十数人の乗客がばらばらと降りて、低い軒の並んだ撫養の町へる。まも入って行く。船着場に派手な柄模様のきものを着た数人の女達が客をひいている。二、三問はばの細い町なみの通路を一町ばかり、それを抜けると明るい畑道になり、ひろびろとした塩田がつづいて見え、その向うが海岸になつている。今ではこの辺を鳴門市明神(あきのかみ)という。古い昔から、この撫養の町から徳島へかけて、桑原専慶のいけばなを習っ人が多かった。ことに老人の人達の中には立花をつくる人達も多く、江戸時代には桑原富春軒の花道に信頼をよせて、この地方一帯に門人の人達がことに多かった様であ寛政三年(約二00年以前)に出版された流儀の伝書「立花錦木」の序文に、阿陽西方寺僧弁誌の一文がある。「ここに我法泉浄刹の現住一倫師は、わかかりしより斯道に心をよせ、よりより花道の諸家に遊びてその説をきく。且つ業の巧拙をみる。蘭菊美をあらそうの中、こころ桑原家にあり、終に門に入りて多年の巧を成る。」とあり、また、この花書の終りに、阿協鳴門脇江雲#亀翅の奥書が記されている。この様に古い時代から、この流儀の花道の盛んな土地なので、はじめてその土地をふむ私にとつて、普通の旅行者には考えられない様な親し‘‘、Aカみと、故郷につながる様な深い感懐を覚えたのであった。今、徳島市には小原疫里、古林鹿泉、武田慶園の皆さんがこの流儀を教えていられるし、鳴門市には石田慶園、平岡慶文、川上慶文、安田疫華さんなど師範の人達がいらっしやる°泉慶花、黒岩疫巌、三田疫雄、笹慶清、播磨慶季、尾崎慶美、蔵根慶栄氏など古い師範家の人達も多い。高原慶寿、小浜慶富さんなど、なつかしい花の友人である。さて、その頃はじめて撫挫の町を歩きながら、軒の低いこの町らしい素朴な軒なみの細い通りにある泉慶花氏のお宅を訪れた。その夜は京都からの珍らしい客として、大変な歓待をうけた^古い師範の人達やこの流儀を習う婦人の人達が数十名も集つて、京都のいけばなの話や、この地方の趣味のお話をききながら、夜の更けるまで語りあった。どうしたことか老人がほとんど多く、おばあさん達が前列にずらりと並んで熱心に話をきいている。はたちあまりの私が、たくさんのおばさん連中にかこまれて、花のお話をしている風景は、なんとなく場ちがいの様な慇じがして、とまどったものであった。その時の泉老人の話が面白かったので、その後折にふれ思いだすのだjこの撫掟の町には昔から、桑原さんの花が盛んでして、随分立花に熱心なやつがおりましてのう、このオ田に三田炭雄というのがおりまして、やはり向賜舎の会員でございます。一昨年の秋だったか、町はずれの行願寺の御本講で、私ども花の連中が集つてお供えの立花を立てておりましたが、丁度この三田が大阪へ廂用に出ようと思つて、家を出て五町ばかりの行願寺の門まで来たところ、本堂から立花を立てる釘打ちの音がして、友達が四、五名顔が見えるのでついつい入ってしもうたということです。その枝は控によい、これは流枝に景気がよかろうなどというているうちに、いつしか連中へ巻きこまれてしもうて、府売のことも忘れてしもうたもんでしよう、その夜は徹夜して立花づくりの手伝いをしたということです。そのあくる日も一紹になつて、立花を作りよる間に、大阪行もやめてしもうて、とにかく仏さまに花を上げるまで手伝いをしたということだが、すきもここまで来ると大したもんじゃ」といつて大笑いに笑いながら、なあ宗匠きいて下され、阿波の立花さしはこんなもんじゃ。と、居ならぶ人逹と一緒に腹をかかえたことがあったが。その老人もすでに亡くなつて、今はただ、私の感懐の中に残るのみとなった。今日、すつかり様子をかえた鳴門市の発展ぶりを見て、あわただしい年輪のつみかさねを、今更のように深く感じるのである。専渓8 撫養の立花師SEN

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