テキスト1966
36/75

E9い江戸時代初期から伝った桑原専艇の立花(りつか)の中に、杜若一式の立花というのがある。一式(いつしき)というのは一種挿しの花という意味で、立花の中でも一ばんむづかしい一色ざしの立花である。五一式(ごいつしき)といつて、松の一式、水仙の一式、かきつばたの一式、楓の一式、菊の一式の五つの花材の一種挿しが流儀の秘伝となつており、その他に蓮の一式、河骨の一式などが、これに準ずるものとされている。かきつばたの立花専渓伝統的に形式が定つている立花は、花型の作り方や技術の大変複雑でむづかしいもので、今日の盛花瓶花の様に簡単に覚えにくいし、上達することにも大変な修練が必要である。従つて今日では段々習う人も、作る人も少くなって来たが、日本のいけばなとして最も優れた芸術であることは、いうまでもない。ことに、日本的な境土的な香りの深い内容をもつている点において、全く立派なもので、私も永年いろいろの形の立花を作りつつ、よくもこの様な深い内容の花の芸術を考えついたもの、と息をつめて感動することも、たびたびである。さて、かきつばたの立花であるが‘私、おはずかしい話であるが、この専渓作永い年月の間に、三回しか作る機会がなかった。はじめての機会は父の在世の頃、丁度、五月二十一日の西本願寺の隆誕会に黒書院の一の間に飾りつけた、先代作の杜若立花の相手役をつとめたとき、その次は大正10年頃だったと思うが、フランスからジョフル元帥が国賓として京都市の歓迎会が、白川筋八木別邸に催された際に、私が日本のいけばなをお見せすることとなり、丁度、五月の初旬だったので、この杜若の立花を作ったことがあった。も―つは、京都美術倶楽部で開催した流展の出品作としてであった。いずれの場合も材料をよせ集めるのに苦心したことを覚えているが、とにかく、立花に一ばん縁の深い私がこんなにおはずかしいほどの寡作なのは、どういう訳なのだろうか。ここに掲載したの立花」を御覧の様に、一瓶の花を作るのに、いろいろな変化のある花や葉を揃えることが、一ばんの条件であって、普通の平凡な形の花葉ではよい花型が作れるものではない。自分みずから杜若の出生地へ行き、充分に選択して、多量の材料を採集してその中から更に選んで、花型を作って行く。これは簡単な様で中々簡単ではない。殊に都会に住む人達には先ず、材料の点において大きいキーこ。制約をうける。その上、杜若の咲く4月より5月へかけての季候と材料の性質の上から、手早く仕上げる時間的な制約もあって、恵まれた条件とたしかな技術が結ばれて、はじめてよい作品が作れることになる。花屋を相手とする様な心構えでは、到底、出来ない相談という訳である。桑原専緊の江戸初期の立花伝書の中に、この杜若の立花の図が数葉ある。その図を見ると花や葉に流暢な曲線があって、くるりとまる<曲つた花軸の線、変化のある葉を適所に自由に面白く使って、実にすばらしいよい花型に描かれている。そのはじめ、私はこれを見ながら、杜若をこんなに美しい姿に、曲を作ることはできるものではない。これは一っの理想の世界を描いたもので、実作を写生したときに、その姿を誇張したものか、或は俗にいう「絵そらご「かきつばた一式と」であろうと思ったのであった。その後、わずかな経験ながら実際にあたつてみると、全くこれは「絵そらごと」や「誇張」ではなくて、真実に作ることのできる尊い記録であることが理解されて、自分の不勉強を恥じるとともに、流祖の芸術に対して、深く頭を垂れたものであっ岡山の倉敷を中心にして、桑原専疫流の若い師範者の中に流枝会という立花の研究会がある。男性の人達ばかりの集りで、家元の指塙をうけてすでに6年ほどになるのだが、この5月15日16日、上野淳泉氏宅において、杜若の立花の研究会をひらいた。以上に述べた様に中々、得がたい機会なのであったが、熱心な皆さんの協力によって、よい作品を数々つくることができたのは望外の喜こびであった。材料は附近の農村を流れる、野川に野生するかきつばたで、自然の風雨の中に育った材料だけに、花軸や葉に変化のあるものが採集され、ふんだんに集めた材料の中から、適当なものを選んで作り上げた。一瓶を2時間乃至3時問で作ったが、掲載の写真はその中の一瓶である。少し背が高すぎて気になるのだが、とに角、御参考のためにのせた。杜若一式というのだが下部の前置(まえおき)に季節の草花を添えることが形式となっている。写真の作品は杜若に「えんどう」を孫えたが、杜若の葉には細いハリガネを挿し込んで作る。水仙の立花の場合も葉にハリガネを入れるが、杜若の葉は中々、入りにくい。従って、自然に曲のある材料が必要となつて来る。中心に青竹を仕組みそれに挿しこみ、ばらんの業を各所に使って「かこい」とする。10人以内の8

元のページ  ../index.html#36

このブックを見る