テキスト1966
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野村順専慶流展の会場に行くまでは、頭の整理がつきかねていた。目前に押しつめられている自分の仕事について、もつと迫力をかけねばならないことが多すぎていた。他人の仕事や芸術を観賞しなければならぬ程の、時間の余裕がなかった様にも思われのだ。けれど私の足はいつかその会場に入って行った°美、そのものが私を其処へ引きづつて行ったのである。会場な一巡し二巡している間に、私は楽しいふんい気にひたってしまったのである。私はいけばなについて、ほんとうはくわしいことは知らなかつた。どの流派に特殊な方法があるのか、伝統は、いつどこで分派の道をたどったのか、それが置かれる位置によつて定型があるのか、専門的な知識は誠に皆無に等しいのである。だが、かつて美学の講義でならったいけばなの、芸術的方法について、いくらかの観賞をたしなんできただけであった。いけばなとは自然の状態を再現する芸術であり、その方法として、天地人の定型の中に、美を表現する手段である、と言う古い記憶を起点として、私は会場に生けられた、一っ―つの作品に対していった。そうした意欲から見ている作品の中に、たしかに立派だと、私を楽しく、愉快に、心をはずませてくれる作品は数々あった。森林を思わせる樹木の立像、山中にある小屋のような造型に添えられた花、雪の風景から春を待っ浅い緑の躍動、田園の風屎を引きちぎつて再現された造型、山の領線を切り取り白砂の浜に据えつけた偉厳と華麗な美を再現した作品にしろ、.中にはェロチズムとユーモアに微笑まされる作品、伝統と因習に向つて爆発的な怒りを含んだ何ものかを見せる、いけばなか、と首をかしげる人を見るのも楽しかった。背景をもたなければ、花が表現されない建築的表現の周囲には、木や花が生きていると思われた。これらの作品以外に、床の間や、建物の空間に添える作品には、ひぎしまった美しさが、よく表現されている事も、観賞の眼を楽しましていた。私は会場を何遍廻ったろう、場の雰囲気になれると、思索のひらめきも次第に拡がつていった。いけばなが、建物の空間にその位置をたしかにしていた時代は、長い時間であった、床の問と呼ばれる空間に、花が孫えられねば、その背景は色彩を失った存在になり、空虚が其処を専有してしまう、風景にはしばしば出会ったものである。古い建物例えば寝殿造りや町屋の、空間構成に、定型化された、床の間と呼ばれる、空間に添えられていた花は、遂にその空間をきらつて、逃げ出したと思われる。花の自由な造型をながめ、建築に表現された空間のとぽしさに、考えは進んでいった。日本の様式はあまりにも、象徴主義が多すぎた、西欧近代のようなイズム化された芸術思想ではない、だが建築空間というのは、象徴性が強いほど、素晴らしいものだとも思われる。床の間と言うもの、此の小さな空間に含まれている、象徴性の強さは誰もが知つている、此の形に多くのことが約束としてこめられている。立派な床の問があれば、此の室は正式の部屋である。床の問は空間構成の最大の焦点となっていよう。日本の生活と空間の中には、このような象徴性を帯びた約束ごとが`何と豊富なことか、しかし封建制下に形づくられた、これらの約束ごとは、不幸にも、そのほとんどが、非合理的なるものと言う、烙印を捺されてしまった。たしかに京の間は、家父長制度の象徴的存在であった。近代の合理主義の住宅は、非合理なるものをすべて、洗い落して合理的になり、そして、その瞬間全く魅力のない、空問となつてしまった。それは日本の住空問があまりにも貧しいせいでもあるが、その中に美と象徴をとらえる方法に、いけばな芸術の本質があるように思われた、と同時に、いけばなは、建物の空間に附随する時代から解放され、自由に、造形活動の領域に、広く、深く、探求の道に踊り出した感じであった。絵画がカンパスと絵具の材料を使って、美的追求をしているとFするならば、いけばなは、植物と砿物を材料として、美の構成に努力している域も理解されるのである。その作品が時間に耐えるものであるかは別として、失なわれた庭、わずかの庭の空間に、オプジェとなって美を再現するであろう。ささやかなそして、しつかりとした小品の数々は、住空間の何処に位置しても、美を添える微笑みが住む人の象徴を、表現するであろう。失礼であるが、桑原素子氏の小品九点に、魅せられた眼を転じて、上野、田端、中井、塩飽、太田、楢林、桑原父子等、諸先生の作品を、眼を開いて観賞しながら、私は自分の仕事の中に潜在する、制約と不条理を蹴落さねばならぬと、熱望に力づくのであった。写真桑原完爾作(流展出品)8 (京都市文化団体懇話会理事)花と美と建築と

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