テキスト1966
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普通の花器に入れるいけばなから、段々と様式が複雑になって来た経過をお話したが、今日、行われている「花道の造形」の中でも、植物材料を中心にして作る新しい作品が随分多い。前号④に記した様に、花器は用いないが、木のぽくや草花を配合して特殊な形を作ることも多く、これも花道造形の一つの行ぎ方である。また、ここに掲載した写真、Rの如く、はりがね、コンクリートを主材に形を作り、それに各種の花を首短くさし込んで形を作り上げているーーこんな作品もある。この作品は桑原専渓全体の形は作者が考えついた創作的な形態で、ことに生(なま)の花を短かく全面にとりつけてあり、この材料は水を仕込んでないので、すぐしおれ、時間の立つにつれて花の色も失せて、やがて褐色に変化して行く、その色の変化のおもしろさを新しい感覚で見つめたーーそんな点に作者のこれまでにない花のとらえ方、見方をしている点が、ことに優れていると思う。いうものは、これまでにない新しいもの見つけ出し、作り出すところに本当の目的があるのであって、材料においても、全体の形の作り方においても、でき上った作品から受ける感じも、作品ごとに新鮮な創作であらねばならないものである。も、或は新しい造形作品をみても、その作品が「弱い」とか「強い」とかの批判をする。これはその作品のこの様に、花道の前衛的な作品と私達は、どんないけばなをみて技巧も含めて、でき上ったものが見るものに対して、強い感動を与え、迫力をもつ作品はいわゆる「強い」作品であり、技巧的には精密であっても感じのぽやけた様なもの、目的のはつきりしないもの、惑激のないもの、こんな作品は「弱い」作品で、全然つまらない無意味の作品といえる。そんな意味において、Rの作品はまことに優れたものであって、花道の造形の要点をついた作品であると思う。勿論、これまでの花道の形式や技法や一さいのとらわれから離れて、更に「花を用いた造形」という点において独自の考案をもつているものといえる。花道の造形は、以上にのべた様に「花」を材料にして形を作ろうとする場合には、新しい工夫が数々考えつかれるに違いない。どんな用い方をしても、どんな形でもよいのだから恐らくこれ程の自由はない。要はただ一っ、その作品が美術として認められる立派な形品であることである。あらゆる素材(石でも金属その他のもの)と花の組み合せによって、新しい作品を作る夢は広い。さて、ここまで突つ込んでくると、私達の造形は材料を自由に選んで、金属でも石でも、紙でも布でも、それが美を作り出すことができるなれば、どんな材料をも用いることがでぎるのだが、それならば「植物材料」を反対に使わない場合があつても、いいのじゃないかということになる。材料の制限がないということは、R⑧ 反対に花材を使わなくともよいということである。新しい発見をしようとする態度の中には、中途半端な心があってはならない。「徹底した信念」これが一ばん大切なことである。花道の作家は新しい「造形」の世界を切りひらこうとして、ここまで進んで来た。ここで一切のいけばなの世界の「とらわれ」から離れることである。一個の造形美術家の立場がここから始まることになる。勿論、私達は花道から出発し、花道の技法を十分身につけた。花道で鍛練した技術を基本として、花道家らしい個性をもっ「造形作品」の研究に進むべきではあるが、そのとらわれから一切はなれて、自由のひろびろとした、しかも苦難に満ちた世界に進むことになるのである。ここで、写真Rの作品を見て下さい。この作品は大阪高島屋で催された美術展に出品した旧作であるが、この中には全然「いけばな」というものがない。完全にいけばなから離れた「造形作品」といえる。「前衛いけばな」という言葉が流行したことがあるが、実によくない言葉である。この方向の作品はあくまで「いけばな」とは切り離すべきものであり、いけばなとは別箇のものとして、出発することが大切だと思うのである。8 今日のいけばな桑原完溺作桑原専渓作@ ④ R

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