テキスト1965
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貧富)ー~友ニー1私の十五、六オ頃だったと思う。その頃、京都寺町四条の新京極のつきあたりの八坂神社のお旅所で、うちの流儀の生花会が毎月十五日に随分ながくつづけて催されておった。これは前後十年ほども続いた生花会で、その頃の京都のいけ花諸流の間にいろいろの話題をにぎやかせた、問題の花展でもあった。その後、古い木造建築がとりこわされて改築されるまで毎月かかさずこの生花会が催されたが、大正のすえ父が亡くなってこの会も中止することになった。私の子供の索のかなり長い年間、このいけ花会のために、私も花道家の卵としていろいろな雑用に追い使われたものであった。生け込みから後始末まで、家の丁稚小僧と一緒になって、それこそ均一に一ばん嫌な重労働に使われた時代でもあった。このごろの12月は秋の延長の様に暖い気候だが、その頃は師走という言葉のびったりする様に、中旬をすぎると急に寒さを増し、雪のちらっっ新雪一落葉専渓く日がたびたびあった。毎月15日の生花会がその年はどういう訳か、25日頃にひらかれたことがあった。生花会の終るのが夜の10時半頃で、京極四条の停留所の人影が少しまばらになると、生花をこわし花器を片づけ、大きいものは会場の押入れにしまい込み、小さい花器は箱に入れて荷車に稼んで持つて帰る。番頭の幸さんと吉どんが会場のあと片づけ、小僧の広吉と私が車を引いて帰ることになった。その頃から曇り気味の空から急に雪が降り出して、みるみる間に電車の舗道が白く見えるほどの雪になってきた。これは大変な晩になったものだと思いながら、広吉が車先、私があと押しという役割で寺町四条のかどやの店先をまがつて、寺町を北へぐらぐらよさよさと車を引き出した°錦通りをすぎると頭から肩へかけてまつ白くなり、荷車へかけたおおいの布も雪が一めんになり、人通りもほとんど絶えた。その頃まだ舗装のない土の道を、子供の茶目気もあって中々元気よく押し歩いて行った。アスファルトの道に降る雪は、すぐ濡れて消えて行くのだが、土の道の雪はつもることが早く、ましてこの夜の営は見るみるまに白くつもり重つて、六角をすぎる頃には早や、一寸あまりにもなり、車の輪も廻りにくくなった。いたづらに力を入れる息づかいだけが激しく、荷車は中々進むものではない。車の輪と荷台の金具との間に、すつかり雪が押しつまつて、回転しない様になり、それに加えて私達には初めての経験なのだが、雪をつけたまるい車の輪が不規則な五角型になり、暫くするとこの車輪が四角の形になって、荷台は進行するたびに大ぎく、がた/\と階段から落ちる様な音を立てて、そのたびごとに稲荷の花器が激しく打ちあう。三条の十字路を越えた頃には、もうどうにもならない、車輪は絶体動かないことになった。もうこれ以上は車輪の廻ることを考えないで、カのあるままに引きづって行くより方法がない0私と広吉とは必死になって、それこそ一寸刻みに車を動かせた。新しい雪はまもなく二、三寸にもなったが、暫くすると私達の車が意外にも軽く動き出す様になった。不思議に思いながらよくみると、車輪は廻つておらないのに、車は丁度椙(そりごの様に雪の上を滑る状態になったのだ。車を雪の上に引きづつて、それから御所の近くの丸太町まで帰りついたのは午前2時に近い頃であった。今日では物事を合理的に考えることが一般的なのだが、その頃はまず厳しいしつけをすることが修養の第一と考えられた時代であるから、若様も小僧も区別してもらえるものではない。つまりこれがス。ハルタ教育というのであろう。お蔭様で今日もなお頑張りのきく身体をもちつづけることができるのを、今時分になって、やつと親父殿に感謝の意を表している次第である。下京や雪つむ上の夜の雨京都御所の寺町御門を入ったところに公孫樹(いちょう)の大樹がある°京都をかこむ山の樹木が紅と黄に色どる頃となると、この御所のいちょうもまっ黄色に色づいて、築地塀と御苑の松のみどりの問に一きわそびえ立つて実に見事である。落葉の頃になると少し褐色を混えた、いちょうの葉が、雨の様に降り落ちて、樹のまわりをひろく隈どつて黄色い落葉の大きい輪をつくる。烏丸通の。フラタナスの葉もやがて褐色になり、舗道から車道へかけての溝をうめる様に一めんに散りしいて、晩秋の情娯を描く様になる。からからと風に舞うその一枚をとり上げてながめてみると、残りの緑が黄と褐色を染めわけて中々美しい。落ち葉のうちの大きそうなものを二、三枚ひろつて鼎り、紅の山菊を添えて小さい水盤に挿してみると、色も美しく季節感のある風雅な盛花ができた。「人待てば冬木ばかりに射す日かな」ーー午次郎ー|やがて街路樹も刈りとられて、落莫の冬がやってくる。葉の落ちつくした樹の枝.少し黄葉を残したかん木の枝を瓶花の材料にして、美しい色の花と緑の葉を添えると風雅ないけ花が作れる。とさ凡兆みづき、はしばみの細い枝に白つばきをつけた瓶花は、少し古い好みだが初冬のいけ花の好ましい風趣といえる。枯木を数多く使って水盤に挿し湿室のバラやカーネーションをあしらった盛花も、色彩的に美しい花になるだろう。水仙が咲く様になると、秋の花もすつかり終り、朧梅(ろう.はい)の枝の褐色に黄色のつぶらなっぽみが段々と大きくなり、いよいよいけ花も冬の季節を迎える。枯芦(かれあし)の葉、すすきの枯れ葉など、褐色に枯れ残った秋草に紅葉の寒菊、水仙などをつけて活けるのも、渋い趣の中に風雅な味わいのあるいけ花である。「芦枯れて家鴨ながるA水碧し」ーー孝雄ー|十二月より二月中は自然に咲く花も少く、梅、つばき、南天、せんりよう、おもと、水仙、なたねなど素ぼくな雅趣を味う季節であるが、方、湿室の花は十二月へ入ると成皿んに出はじめ、二月が最盛期の美しい花の季節である。混室に咲く雪柳、八重桜、ぽたん、つつじ、洋花の、チューリップ、マーガレット、フリーヂャ、カーネーション、百合の類、バラなど燎乱として色を競う。12月はその混室花のはじめである。室(むろ)咲や今し出を待っ厚化粧」||浪声ーー'また荒涼たる草木の自然の姿と、湿室花の豊かな花を対照的に見ることのできる季節でもある。「混室(むろ)咲を卓上に人の世の.温8

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