テキスト1965
81/82

今日の花道を大きく分類すると、およそ次の様になります。1、伝統の立花、生花2、自然花を材料とする瓶花、3、自然花と植物以外の材料を組み合せて花器にいける瓶花様式4、花器を用いず、て新しい様式の造形作品、5、植物以外の材料(金属、木材、コンクリートなどの)によって作る造形作品。専渓盛花植物材料によっ以上はおおよその区別でありますが、さ含にお話しました様に、芸術作品というものは、相互をはつぎりと区別することのできないのが普通であって、作者の考え方によってそれぞれの中間的な作品がつくられることも、当然ある訳であります。また、花道という言葉、いけ花という言葉さえも、よく考えてみれば以上に挙げた項目の作品には通用しないものもありますし、すでに今日の新しいいけ花に対して「花道」という言葉が適当でないという考え方も生れて来ておるのであります。花道とか、いけ花とかの言葉ではその性格がびったりしない作品も作られている訳で、一体これはいけ花かーという様な質問の出るほど、飛躍した作品も「いわゆる花道界」に作られておるのであります。なぜ、いけ花がこんなに変化してきたのでしようか。これにはまず、いけ花の本賛的な性格を考える必要があります。皆さんもすでに御承知の通り、いけ花の永い歴史を考えてみると、期の寺院武家の書院の花、江戸時代中期以後の庶民生活を飾るいけ花など、その時代と用途によって、立花、生花、投入などその装飾のために適当ないけ花か作られ`作品の大ぎさなどもその用途に調和する大きさを定めたものであります。明治時代はそれらの古風伝統をうけつぐのみに終ったのですが、これは花道だけではなく、建築、絵画をはじめその他の日本芸術の殆どが同じ様な経路をへて今日に及んでおります。大正に入ってから、文学美術に自然主義思想の作品が盛んに作られる様になり、花道では盛花瓶花の創立と発展をもたらすこととなり、昭和戦後は外国よりの前衛美術の影響をうけて、一般美術と同じ様に花道にも前衛的な思潮の作品が多く作られる様になったのであります。花器を用いずに作る,いけ花装飾の一つの形式ですoこんなに考えてくると、いけ花は時代によってその形式が変化していることが理解できますが、これはその転移する時代の社界思想に調和するためにいけ花までもが、これに追随して来たのでしようか。勿論、その時代の芸術思想の影響は大きくある訳ですが、いけ花として一ばん大切なことは、その用途の変化うつり変りということであります。江戸初期までのいけ花が豪壮華麗室町桃山の大型のものが多かったのは、主として寺院武家の装飾のための用途が多かったために、江戸中期以後に立花から軽やかな生花が考案されたのは、庶民生活の座敷の装飾として調和するため、明治末期より大正年代に投入盛花が始まったのは、写実的文学美術の影響もありますが、なお重要なことは自由主義的な考え方がいけ花に持ちこまれた関係にあります。写実主義の盛んなその頭は、いけ花にも一種の流行の様に「直訳的な写実的いけ花」とでもいえる、低俗な写漿風な盛花が流行しました。横長の広い水盤に日陰かづらをしぎつめて、水と草との自然風盛花が流行したのはこの頃でした。現代のいけ花はさきにのべた様に数種の形式と考え方によって、花道界全般が動いているのですが、前衛芸術の影響が一種の流行をつくつて、われわれもとそんな傾向の作品を作って展覧会に出品されている、まことに混沌としたいけ花の時代であります。現代の日本美術はその混迷の時期からすでに抜け出て、日本の美術としての反省と新しい今日の出発を始めている訳でありまして、花道としても、少しでも早くたしかな足どりを定める必要があると思うのであります。ここで考えたいのは、いけ花はただに、時代の変遷によって作品が流行的に変つて行くのではなく、その他に重要なことは、いけ花を用いる用途の変化ということであります。いけ花は時代の生活に調和するいけ花。時代の必要に添うためのいけ花。つまり、用途が一ばん重要な影懸をもつことになります。家庭の花を活けるということが、いけ花の大部分の考え方であった時と、今日の広く大きい範囲をもついけ花の用途とは、余程、変つて来ております。外国風の建築や生活が私達の周辺にふんだんに入って来た以上、これに調和するいけ花の必要であることは当然でありますcさて、今日の花道を五つにわけましたが、これについて解説をしてみようと思います。伝統のいけ花、今日の盛花瓶花については充分おわかりのことですから、ここでは説明しません。5について、その作品の内容。考え方またこれが花道にどう位置するかについて考えて見たいと思います。3、4、7 今日のいけ花①これは植物の形と色に変化あるもの4種を配合して近代的ないけ花装飾の一形式

元のページ  ../index.html#81

このブックを見る