テキスト1965
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桑原専慶流毎月1回発行花の栽培技術がうまくなって、このごろ私達の使ういけ花材料に季節の感じが、段々とうすれて行く様である。春も冬もごっちゃになり、いつの季節の花かわからない様な材料が段々と増してくる。菊やカーネーションやテツボウユリはほとんど一いけ花と専渓年中、見ることがでぎるし、洋種の花は殊に季節感がない。夏の花だけはどうにもならないらしく、すすき、女郎花、ぎきよう、ダリア、ガーベラなどの湿室咲はなぃ。茶道や俳句では季節についてかなりきびしく考えられるのに、最も季節に関係の深いいけ花には、これをあまりやかましくいわれないのは、どういうことだろうか。昔は六月からの夏菊、九月よりの秋菊という様に、その他の花もおよそ咲く季節が定つており、いけ花の材料もその季節の材料を使う関係か季←ら、そのいけ花自体に季節感があったものである。大体、いけ花にはその材料を季節的に定めてはおらない。これは昔からのしきたりで、要はその季節に咲く花を使うことが習慣になっており、特にいけ花の中に季節惑を盛り込むといった活け方が、古い花道に定つてはおるが、これも技法の上の問題で、特に花材の季節をわけたり制限を加えたりはしない。ところが、この頃の様に園芸技術が発達してくると、花を咲かせる季節も変えることができる様になり、自然にあるべぎ花の季節を混雑させる様な結果となっている。これは私達が今日に見る現実なのだが、私達いけ花をつくるものはその実際にあたつて、その考え方をはつきりきめておくことが大切である。いけ花は季節の約束にとらわれることなく、実際にそこにある材料を活ければよい。たとえそれが季節外れの花であっても、現実にそこにある花を活ければよいのだが、ここで考えねばならないことは、その様な材料の自由な用い方をするいけ花と、今―つは、これとは別の考えで季節感のある花を活けようとするいけ花のあることである。晩秋に紅葉を活け早咲きの椿を活けて初冬の季節惑を出すいけ花。早春の菜花、三月のかきつばた、柳の芽出し、五月のすいれん六月の笹百合、新緑の山木の葉、八月のすすき、りんどうという様に、いけ花の中に季節惑を出そうとするのも趣味の深いいけ花といえる。これは茶道や俳句と同じ様に、日本的な自然と季節を織りこもうとする行ぎ方で、私達のいけ花には、この様な自然主義的な考え方も必要であって、いけ花にも自由主義と自然主義の二つの行き方があるというわけである。節感黒にちかい青色の水盤に,オミナエシの淡黄とコオニュリの朱色の花と緑の葉の配合は,軽やかな形の中に,自然風な情緒のある盛花である。足もとをすかせて細い茎の配列に美しい技巧を考えた。オミナエシオニュリ編集発行京都市中京区六角通烏丸西入桑原専慶流家元1965年9月発行No. 33 いけばな

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