テキスト1965
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ど、それが普通の様に思えて、も一度、考えなおすということのできにくいものである。以前からなんとなくならわしとなつていることが、いろいろな場合にある。習慣、恨例、先例というものは私達がその中に身を置けば置くほ桑原専渓伝統的な習いごとの場合には、ことにそれが当然の様に思われ易い。華道の中には伝統的ないけばなと、近代的ないけばなとがある訳だが、いずれにしても、花を習う人達が、いけばなはこうするものだという、一種のしきたりにこだわりすぎるということも考えられるので、ここではそんなことを皆さんと一緒に考えてみようと思うのである。いけばなを習うことは、いけばなのしきたりを習い覚えて、少しでも花器は褐色の壺,中に剣山を入れて丁字留とあわせてとめて早く自分の僭性のある自分だけの花を活けるようにする1なことである。これは当然なのだが、その様に思いつつ、いけばなを習いつつあると、またこれを教える先生の方から考えても、いけばなの慣例しきたりというものが、非常にいい場合と、反対に平凡な習性となつていることとがある。具体的に例を挙げてみる。私達が瓶花を活ける場合に、木ものの主材に草花のねじめをつけることが多い。これは―つのしぎたりである。梅に梼をつけ雪柳に寒菊をつけるこんな配合が四季を通じて非常に多ぃ°木ものに草花をつけるのは調和がよいから配合するのだが、これを、何故そうするのかと反省する訳でなく、ただ一種の習性となつている。ことに木ものを七割、草花を三割の分量と大きさに活ける。また、新年の花に松竹梅を好んで活ける。夏になると太曲を水ばんに活け根じめに、かきつばたや、すいれんをあしらう。松にバラを添え、ろう梅に白つばきをつける。時としてなんてんにはぽたんなどという下手もの趣味の配合も出来てくる。たしかに、こんな配合はいけばなのしきたりであって、そのしきたりのあることは、それが好ましい配合であるに違いない。従ってこれはすべてが悪いことでは決してない。これは大切木ものに草花をつけることは、いけばなの中の大ぎい習慣であるが、私達が希望するのは、その配合がしきたりのままの、お座なり的ないけばなにならないことである。松にバラも、梅につばきもいわばしぎたりの配合である。しかし、今日のいけばなとして、そのしきたりを打破り上越す感覚をどこで作り出すかということを、よく考えて活けたいということである。佐栽好みの様な松のよさよりも、新鮮な松の緑を見る様な、本質的な美しさをいけばなの中に出す様に心がけたいものである。しきたりを守ることもよいがお座なりの先例そのままの花を活けることは、考えものだということである。更に望ましいことは、こんな習慣的な配合を破ろうとする態度、それが必要である。木ものに草花をつける場合は、どこか一調子変った形を作るとか、水ばんに太閥を活ける場合には、あしらいに山百合、雪柳をつけて慣例の配合をさける様な配慮が必要であろう。干支(えと)にちなんだ花を入れたり、新年御題のいけばなというのが行われる様である。いうまでもなく「御題」は和歌の「御題」であつて、これをいけばなに持つてくることは一寸、無理の様に思える。そんな関係からか俗悪な慈匠花が多い様である。こんな趣味は好ましいものではない。し苔たり毎月1回発行桑原専慶流瓶花ある。紅色のばらと水仙は,明るい春の色である。緬集発行京都市中京区六角通烏丸西入ばらすいせん桑原専慶流家元1965年1月発行No. 27 いけばな

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