テキスト1965
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ヽ'‘ 自分のもちものの中にはいろいろな想い出があるものである。身につけるものから様々な道具の類まで。ことに女の人達にはぎものからアクセサリーの品々。これはどこで買ったものとか、だれに貰ったものとか、それにつぎまとう想い出が数多くあるに違いない。楽しかったこと、わびしかったこと、苦々しい思い出もあることであろう。花器についての想い出。お花を活けるのにまず必要品である花器について、なっかしいいろいろな想い出を、いろいろな機会に持つことが出来たのは、或は私の幸せでもあり、或はふり返つてみて、思わず微笑を浮かべることにもなり、また、それぞれに関係のあった人達を思い出して、案外、彼は早く亡くなったものだと考えたり、一体、今頃あの人はどうしてるのだろうと思ったり、しばらくは深い感懐の中に入るのである。花展に出品して素睛らしい花を活私の花瓶専渓18オになったとき、流儀の師範のうけることの出来た花器、割れてしまつて何時までも忘れられない花器、手もとにある古い花器をながめながら、その時その時を懐い浮べ、私のいけばなのために、永いとし月を共ーに暮してきた花器のいろいろに深い愛情を感じるのである。ことに誰れかに貰った花器、これは一層なっかしく、その人の面影をいつまでも想い起す。私がちょうどちの年寄りで、村井慶全という人があった。亡くなった父の直門の中でも、技術も立派であり、殊に人格の立派な人で常々私の花道について、いろいろと相談してもらった人だったが、私はこの村井老人から初めて花器をもらった。―つは一尺五寸ばかりのナマコの投入壺、一っは青磁のまるい水盤であった。まだ、ひとりで花器を買う自信のなかった私は、そのとき全く嬉しかったことと、どうやら花道家の卵として運命づけられている自覚を漸くもちはじめた頃だったので、とにかく、自分の花器というものを初めてもった喜び、全く私にとつては歴史的な事実の始まりということになった訳である。私の父、つまり先代の家元のことなのだが、これは実に剛腹な性格の人で、その時代の花道界でも人間的にも、技術的にも傑出した人であったが、花の材料と花器に対しては金銭的なことを考えず、ことに分量について、つまり花材や花器を買うときはどんなものでも、どんなに多く。tこ 父の花器はあまりにも大ぎいものても自分の欲しいだけ買うという、今日の時代では到底通用しない様な太い性格の人であった。花材でも花器でも荷車一台で単位という次第で、花器も直径四尺位の水盤や、子供が2人位は乗るこのと出来る舟の花器。3尺もある銅の水盤、そんな特大の花器をいつとはなく梶集して、いけばな会に豪壮な作品を陳列して、明治から大正時代にかけての花道に大きい足跡を残されたのだっが多かったので、保存も出来にくくいつしか散逸してしまったが、それでも今、私の手許に残っている30個ばかりの花器や花台の類をながめながら、その花器から明治花道の香りをしのぶことも出来るし、私の記憶をたどつてその頃の花展の盛大さを思い出している。二階から転り落ちた花器のお話私の手もとに父の残してくれた一――足高つきの水盤がある°染附の古風な形のもので恐らく江戸末期か明治の初年に作られたものに違いない。その頃、烏丸松原にあった京都高島屋で花展が催されて、その会場にこの水盤の盛花が出品されたのだが、生花会が終つて道具を運ぴ出すとき、手伝いのKさんという老人が、この水盤を二階の上から階段へ転り落したのだった°陶器で高足の水盤だから普通なれば当然、割れてしまうに違いない。その頃の百貨店は一階入口で履ものをぬぎ、じゅうたんの上をスリッパにはぎ換えるという時代なので、この水盤は階段の上から敷ものの上をころころと転つて、一階まで割れもせず、傷も入らず無事に落ちた。ところが、これを落したおぢさんは大変律義な正直もので、どう考えたものか附近の交番(派出所)へ行きその頃の巡査(警官)に主人に申訳ないことをしたのであやまつて欲しいと頼み込んだ。交番の巡査ものどかな話をきいてこの年寄りを連れて、父に謝罪の介添えをしたという話。とに角、明治はよき時代だったと思う。も一っ転り落ちたお話。今から10年くらい前の話である。私が頼まれてNHK京都放送局から、対談のラジオ放送をやったことがあった。ぉ相手は森幸子さん(今春、私の次女の御媒約をして頂ぎました)、折角の放送なので卓上の花を活けようというので、花器と花材を持参して盛花を飾ったが、さて終つて後、お手伝いに来て貰った岡山のU君が、階段から降りようとしたとき足を踏みはずして、花器を抱いたまま転り落ちた。U君はこれも正直一方の人なので落ちても花器を割らない様にと、しつかりと離さなかったので、もろくも破砕した陶器の破片で手首を傷いて出血多量、全く大変なこととなった。以上が二階から落ちた花器の話二題。―つは残り―つは割れてなくなった。NHK京都放送局も最近、新築されてすつかり様子が変ったが、先日、いけ花のテレビ放送に行った際、花器を運ばせながらあれから何年になるかしら、などと考えるのであった。私の家にある花器の中には、深い因縁に結ばれた花器がいろいろある。ある洋画家が持つて来た宋窯の水鉢、これは金に困つて買つて欲しいと頼まれた花器。長野の陶芸家から送つて来た壺の幾つか、この人はどこに居るのか生死不明のまま、壺だけが私の手もとで活きている。陶器の花器がこわれたがために、永年の友情も破れてしまった話もある。私達の流派の上野淳泉君が変形陶器を使って、文部省いけばな審査展に出品、その作品の優秀さを認められて「文部大臣賞」を受賞されたお話など楽しい想い出も多い。桑原完爾、素子おふたりが同じ審査展に特選2個を獲得して「おしどり特選」と、新聞紙上を飾ったが、そのときの賞品が「永楽作鶴首花瓶」2個、これは健在して保存されている。まことに、花器とともに生活する私達は、それに寄せる愛着と想い出がつきないものである。7 画・桑原桜子(5オ)ヽ・・.,如v•.

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