テキスト1965
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リーヂヤ2本の小品盛花である。花器は黒に白を交えたにぶい暗色。フリーヂヤを2本、花を揃えて葉はすそもとへ挿しあしらう。バラは中間に高く1本入れ、その右方へ長くのばして1本入れ、中央の前方へ突ぎ出す様にして、胴の花を入れる。クリーム色のバラとフリーヂヤの白葉の緑が新鮮な味わいをつくり出している。すがすがしいさつ。はりとした色彩の盛花だが、白い花は清潔な惑じがして好ましいものである。八重白花ストック(No.10)淡黄のバラ3本、フ黄チューリッ。フ花材・フリーヂヤゞノラ淡紫八重ストックユキヤナギ白カーネーションテンモントウ緑淡紫スイトピー純白大輪菊淡紫エリ白花バ淡紫フリーヂヤ白花ストック白と紫は調和のよい色で、どの場合も淡黄が好ましい。赤色の花、紅色の花には緑の葉をたっぷりとつけて、新鮮なうるおいを感じる様に活ける。強い黄色は小歯が好ましく、スカシュリの開花の様な強い黄褐色には緑葉を多くつけるのがよい。濃い紫には緑葉を多く使うと上品に見える。カラ白オリンビック記念の千円硬貨を手黄色はのひらにのせてみると、たっぷりと持ちおもりがする。机の上に落してみると、びんびん鈍い音がして、これはお金という惑じがしない。ほとんど流通することのない貨幣らしいので、これは孫子の代まで残しておく記念品というのがほんとらしい。私の手もとに明治四十年発行の五十銭銀貨がある。つくづくながめながら、その頃を考えると中々なっかしい。これは銀貨といつてもはずかしくないほど質のよい硬貨で、図案も中々上品なものである。菊花御紋章の浮きだしに、大日本という文字がとりわけ威厳があって全く。貨幣というものはその時代や、社会を象徴するものということが、つくづく惑ぜられる。その頃の一円紙幣というものが中々立派なもので、武内大臣の肖像が印刷されており、「明治十七年五月二十六日太政官布告第十八号兌換券条例を遵守して発行するもの也」「此券引かへに銀貨壱円を相渡可申候也」と書いてあって、なんとなくお上の有難さを惑じる様な紙幣である。さて、五十銭銀貨と、今度の千円硬貨を前にならべて、一体、これで随筆お金の話専渓どのくらいのものが貿えるのかと考えてみる。明治四十年というと、ハガキが一枚一銭五厘、市電の切符が片道三銭、最低のサラリーマンの月給が三十五円程度という時代である。映画をみて簡単なお食事をして、五十銭程度ですむ頃であるから、今日の千円硬貨と比較してみると、大体おなじ程度の貨幣価値である。千円は五十銭の2000 倍で、物価は約二千倍の格差があるということになる。その頃、ものを習う月謝が五十銭程度。この五十銭銀貨を紙に包んで、先生のおひざもとに差し出すのだが、なにしろ銀貨の紙包みはガサガサとして`ひとところに落ちっかないので、まず、ご飯つぶか糊かで五十銭銀貨を紙にはりつけて、その上で包むという、まことにわびしいが便利な習慣があった。私の家は代々、本願寺のお花の御用をつとめておったので、いつも月末になると本願寺の財務局に、その月の御用代を頂きに行く。これがまた大変なもので、五、六百円ほどの支払金を貰いに行くのに、番頭と小倍が手さき車という、小さい荷車を引いて六条まで、頂戴にまかり出る。今から考えればおもしろい話だが、お寺のお支払いであるから銅貨が多い。その頃の一銭二銭の銅貨というと、一枚とつても中々重鍼があって、ことに二銭銅貨は例の千円硬貨ほどの重みがあって、これが五百円千円となると、かなり大きな箱に2個程度となり持ち上げるにも中々力がいる。したがつて荷車が必要ということになるわけだが、これを貰つて車に稽み、大宮松原上ル芝原嘉兵衛さんという、その頃の本山勘定の家へ運んで、ここで紙幣と両替してもらうという訳である。(師範笹田艇季さんは芝原氏のお孫さんです)一寸した家が一_一千円程度で買える時代、電話の売買が案外高くて二百円程度という頃であるから、五百円千円というと中々、大金なのであった。狂言の中に八九連歌(はちくれんか)というのがある。借金した太郎冠者が返済をやかましくせめたてられて、金貸しの家へ連れて行かれ、結局はその主人が連歌の好きなのを利用して、歌にことよせて借金証文を返してもらうという筋書きなのだが、金銭というものは室町時代でも今日でも、ままならぬものの随一であることにかわりがないらしい。昭和25年より始つて休みなくつづいている研究会である。毎月第2火曜に家元花席で各自作品を活け率直な批評をうける。会員は師範資格者に限る。入会希望者は家元へお問合せ下さい。かよう会6 10

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