テキスト1964
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対B召A 対照型(タイショウケイ)と云うのは、左右に殆ど同じ程度の長さに、枝葉花の出る形を云うのである。しかし、左右同じ長さと云つても多少の長短はあり、左と右と同じ形に作るのではない。そこの変化をもたせて、重量的にバランスがはずれておりながら、しかも左右の均衡のととのつた形と云う意味もある。A ありながら、左右の重みは少し違つている。右の方に花材の分量も多く複雑な形に作られている。白い百合、紫のトリカプト、褐色のホトトギスの三種を配合してあるが、黒色の花器にこの花材の色は中々調和がよい。左右に同じ様に出ている写真のAとBは同じ花型でAの瓶花はまつ黒の陶器に、が、実際は右方が少し前方ななめに出ており、左のユリは横にのびている。中央、花器の正面ヘトリカブトの花が強く出て、濃い緑の葉がたつぶりと茂つて、中心をしつかりおさえている。その後方ヘトリカブト、またその後方ヘホトトギスを入れ花型の深みを作ってある。こんな高い花器は花瓶の前の枝や花葉を少し垂れさせて調子をとるようにする。Bの瓶花は濃い緑の花瓶に、柿のオレンヂ色、ナナカマトの赤い実を挿しあわせて、草花の根締めをつけない木もの2種の瓶花である。写真では色が見えないので淋しく見えるが実際は花器と花材が強い色彩で実に美しい瓶花である。木もの、ことに実もの2種で瓶花を活けるのは珍らしいが、案外、風雅でもあり面白い味わいがある。写真の様な扁壺(へんこ)には左右均斉の対照型がよく調和する。B このごろは仰木村とは云わない。滋賀県竪田町仰木である。しかし私にとつて、仰木はなっかしい村である。私がはじめて仰木へ行ったのは18オの秋であった。父につれられて、竪田まで太湖汽船と云う一―100トンぐらいの大きい船に乗り、竪田の沖から手押しの小さい和船に乗りかえて、わびしい竪田のさん橋についた。それからつまさき登りの山道を約一里ほど、下仰木、ひらわ、上仰木まで歩いて、その地方一帯のこの流義の花道の人達に迎えられて、その夜は仰木どまり。五十名ぐらい集つて立花の花造りに夜おそくまで賑やかな風景であったことを昨日の様に覚えている。雄琴、仰木、安曇、今津、海津あたりまで、恐らく江戸時代からかけて、桑原専慶の花を楽しむ人達が多く、私が父に連れて行かれたのは、流儀として由緒の深いこの土地に、いわばお目みえの様な形で紹介するためであったのであろう。その頃の古い門人の人達は、殆ど亡くなられたが、私とこの土地の花の結縁は、いつまでも深く今日につづいている次第である。この十月、琵琶湖大橋がかかり、やがてこの仰木峠にドライブウエイが通つて、比叡山をつき抜けて京都への道が出来る。写真の様なしづかな山村風景はやがて影を消すことであろう。花道を楽しむ風雅な山村、仰木の素ぽくな情緒をいつまでも残して欲しいものである。(専)6 仰ぉぉ木ぎ村むりB. ナナカマド,,ヽヽヽ白ユリトリカブトホトトギスカキ型

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