テキスト1964
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工夫し、自分のものを作り出すーー—専渓著作「新しい生花」の中に、盛花瓶花の創作について、次の様に記してある。創作とはどんな意味をもつかと云うことである。言葉の意味は「芸術としての内容をもつ新しい考案技術その作品」のことである。従つて盛花瓶花の基本花型は創作とは云えない。基本花型は技術を勉強するための基礎の花型であって、厳密な意味での創作とは云い難い。はじめに話した様に、いけばなは自由創作が最も必要なことであるから、私達はその基礎となる種々な花型や、それに関連するいろいろな技術を勉強した。そして、いよいよこれからその知識と技術を役立てて新しい作品を自分の考案で作り出すこととなった。以上は「よいいけばな」を作る場合に、必要な考え方で、私達がいけばなの稽古を続けて行くことは、最終的には、全く自由に、思うままのいけばなが作られる様になり、しかも、その作品がその人らしい香りと考え方が、何時も浮び出ている様な自分が研究して作った新しい花型、新しい色調花。これが目標なのであって、そのためには、技巧が充分練達されていることが先ず大切であり、新しいエ夫を生み出すことの出来る「いけばなの頭脳」を完成することが必要であろう。技術もうまいし、工夫も働く、と云うことである。花の材料を持ったとき、この花はこんなに活けようと直惑するー~の優れた考え方が大事なのである。―つのお手本を見てそれに依つて活けることは、或は「こうお活けなさい」と教えられて活けることほ、決して自分の創作ではない。自らがそれが大切なことである。皆さんは現在、お花を習つている。しかし何時までも習つている訳ではない。自分が勝手に工夫して自分の思うままのいけばなを作るために、現在、その方法を習つている訳である。これは必ず、自分だけの創作をつくる時があることを意味する。自分だけの自由な、好きなお花を活けることが出来たら、どんなに楽しいことだろう。先日、テレビ映画の中からこんな言葉が飛び出して来ました。「美人じゃないけど私の顔です、そして、私の一ばん好きな顔です」瞬間にきこえた言葉であったが、一寸おもしろい言葉なので記しておいたのだが、いけばなでもその通り、自分のいけばなは、自分の工夫に依つてしつかりとした自信をもつことが大切である。そして自分の好きないけばなを作ることがなにより大切である。さて、自由創作の花と云つても、相当期間、練習をつづけた人達は、その作品の中にしつかりとした根底がすでに出来上つており(それがために基本を練習したのだが)、どんなに思うままに好きな花を活けても軌道から外れる様なことはあり得ない。ここが大切なところであるが、また一方より考えて見ると、思い切った花型作成、色調感覚などを作り出したい心はありながら、すでに出ークロトンカユウ来上つている技術のワクの中から飛び出せない場合がある。ここが―つの段階である。これまでの技術を充分に利用しつつ、新しい工夫を楽々と使える様になる、新しい考案を次々と生み出すことが出来る状態、しかも、それが、安定感のある佳作であること。これが望ましいことである。流行的な作品を模倣してはいけなぃ°模倣的精神は堅く禁物である。稽古をする°習うことと、作品模倣とはある一面よく似通ったところがあるが、その性質は根本的に違うものである。―つは正しい建設でおるのに反し、一っは基礎のない虚栄である。いけばならしい、などと当然のことを書いたのは、近頃、らしからぬ「いけばな」を方々で見かけるからである。私達、桑原専慶流のグルーブは、真実のいけばなをいけたい。ここに創作と云う問題を考えても、それはあくまで、植物を対照とし、素材とする「いけばな」であることが第一の条件である。その中に常に新鮮な工夫のあるいけばな。奇矯な流行的花材や浅薄な意匠花器を用いないことである。私達のいけばなは、自然植物を材料に使って、まだまだ、どこまでも追究する処女地が広く残されておる°私達はもつと深く研究して、品位の高い、真実のいけばなを勉強したいと思うのである。随つて、私のここで云う、創作と云う言葉の中には、この意味が前提として含まれている。それが現代花であれ、古典花であれ同じことである。巻頭1ページの写真と、4.5、の。ヘージにのせた近作写真は、この意味を心において、活けた作品どもである。盛花瓶花の新しい作品として見て頂きたい。「いけばな」いけばならしい2.3.2 盛花瓶花の創作そ

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