テキスト1964
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の焦しよう今日は八月十六日。かねてから見たいと思つていた「近江妙蓮」を見学に出かけることにした。運転手兼カメラマンの章子氏とともに名神国道を八0キロで飛ばす。栗東町から8号道路に乗り入れ、約3キロ行って左手を更に1キロ野洲町に入る。町を抜けると野洲川に出る°橋を渡ると対岸が守山町。ここから堤防づたいに草道の悪路を、ほこりにまみれながら目的地まで2キロ、ここが野洲郡守山町田中と云う、「近江妙蓮」の所在地である。田畑の中に家が点々とあるありふれた農村の風景である。やっとさがしあてて草むらの中に「近江妙蓮所在地」と書いた立て札を見つけ細い畑道を50メーターも入ると、小さい郷社の様な社があり、その境内から隣りの森へかけて墓地が並んでいる。そのすぐ前に一――十坪ほどの蓮池があり、それが訪ねて来た珍らしい蓮の出来る池である。昨年夏、朝日新聞でも紹介されたが滋賀県の文献に依ると、平安時代に慈覚大師が唐から持ち帰ったものと伝えられ、金沢市持明院にあるものと合せて、全国に三カ所しかない珍らしい天然記念物である。この池に十本ほど花が咲いておつたが、写真で見る様に一本の茎から二つ以上、十二の花をつける蓮で、葉は普通の蓮と変りはない。写真ーは妙蓮の開花で五つ頭である。写真2は池の全娯、写真3はその一隅近江妙蓮を訪ねての立て札でこの裏が墓地になっている。この池はすぐ裏手の農家田中米三氏の所有地て、中農と云った感じの家だが、とに角、そのお宅へ行っていろいろお話をきく。当主は三十才位の青年で老婆と二三人の生活らしく、約五十代つづいた家柄であること。この蓮は明治二十八年頃から咲かず、昨年六十年振りで咲きはじめたこと。その他の伝説について質問をする。近江妙蓮保存会発行の。ハンフレットに依ると、この蓮は「今から一――100年前、印度より中国に伝え天台の慈覚大師が日本に帰るときこの蓮を持ち帰り当地に植えられた」とある。午後4時、三十七度に近い日盛りの中を、車を返して帰途につく。写真技師の腕前を祈りつつ。(専)~ おかみさん達も、堀り出しものを八月七日から十日まで、毎年の様に陶器市がひらかれる。五条大橋から東大路まで、通りの北側と南側にかけ屋根の店がぎつしり並んで、台所の陶器類から花器の類まで、ありとあらゆるものが集められて、陶器と人の渦で身動きもならぬ状景となる。いずれもまずは見切りものの下級品で、極めて大衆的な売り出しである。お稽古に使う水盤や壺の類を買い出ししようと、お花の先生方や茶人らしい顔振れ、飲食店関係の見つけ様と、相当、大ぎな買いものもあるらしい。なんだか安そうに見えて、平素と変らぬ品ものや値段。そんな店もあり、重たいのにそんなに気張つて買うこともないだろうに、と思われる品ものも多い。驚くほど安いものもあり、それを見つけ出すのも面白い。立派な店構えや、美しい陳列台にのつかつているものには、総じて掘り出しものは少い°陶器の職人が自作の壺を買つて欲しいと云う様な、かけ屋台には意外な見つけものがある。そんなものを見つけ出すのは中々むづかしい。この期間中に二十万の人出があると云うのだが、とにかく、お盆らしい情緒のある催しである。京都五条坂の陶器市ん点③ て花見

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