テキスト1964
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残花(ざんか)は残りの花である。私達のいけばなでは、活け残りの花のことを云うのだが、ひろい意味で考えて見ると、季節残りの花、その季節でも咲き残った花、散り残った花、と云う意味もある。桜の散り残った花、北山の山峡にあるおそざくら、例えばそんな場合桑原専渓残花に使う言葉でもある。残花のことを、残英(ざんえい)とも云う、英は花房(はなぶさ)のことで、残りのはなぷさと云う意味である。はなぶさはがく(晦)の意であるから、残花を言いあらわす言葉であり、ただしこの言葉は自然の樹にある残りの花をさして云う言葉である。茶道の方で云う名残りの花(なごりの花)と云うのは初秋の頃、茶のなごりの季節に、夏の花、秋草を交えて活ける―つの形式であり、夏の残花を惜しむ心も、その中にふくまれていることと思う。狂い花(くるいばな)狂い咲き(<るいざき)と云う言葉がある。これにもいろいろ広い意味があるが、普通には(時ならぬ季節に咲く花)と云う意味に解釈せられる。私の家の庭に今、やまぶきの黄色の花が咲いている(8月15日)これなど狂い咲きと云うものであろう。秋咲きのかきつばた、くら、なたね、など珍らしく感じるが、これは狂い花ではなく、その季節の早咲きの品種である。さて、私達がいけばなを活けて、なお残る花がある。華道で云う(残花)である。例えば残った1本の花をどんなに使ったかを、皆さん考えて下さい。おけい古場で残った花を無残(むざんーにも、屑箱に押し込む人もある。その残花を大切に保存して、ふたたび活けるときの用意にすることも大切であるし、また、その1本を小さい花瓶に挿して、ぽくな趣味の花を別に活ける様にすると、残花は必ずしも残花でなくて美しい別の味わいの花が作れる。花材を大切にすることは、いけ花が上達する要点でもある。花の日持のよい秋より冬、春へかけてはおけい古ごとに活ける花がたまつて、捨てるには惜しい花が残10月のつばき、11月のさ残りがあるのに)1本は1本の素つて来る。これをもう一度、水切りして花葉を水で洗つて、思い切り寸法をちゞめて活けなおす。今までとは違った花形となり、配合も変り、新鮮な美しいいけばなが作れるものである。残花を活けなおして新しい工夫をするところに、自分だけの研究が生れる。花を習う人が必ずせねばならない練習の一っである。沢山の種類の花が残った場合、一二本ずつあつめて‘―つの花器につっ込み挿しに挿して、橡側や庭石の上に置く。これを(はなだめの花)と云つて、残花の風雅な処理の方法である。さて、新しく活けた花は、ばニ―――日、冬なれば一週間程度もっのが普通である。いけばなは植物が花瓶にさされてもなお、水を吸つて活きておるものであり、自然、花器の水は減り、花型も変つて来る。無理に曲げた枝は自然の姿にもどろうとする運動を起すし、楽な姿勢に離れようとする。活けたときと同じ姿であり得ない。私達はいけばなを活けた翌日です)、もう一度、花器に水を入れ花型を訂正しなければならない。少し日がたつて、咲きすぎて悪くなった花首だけとり去つて、或はしおれた花葉をとり去つて、少しでも長く美しい姿を保つ様に、手入れすることが必要である。(写真•あわグロキシニア)夏なれ① 毎月1回発行桑原専慶流No. 23 (一ばん必要な頃なの編集発行京都市中京区六角通烏丸西入桑原専塵流家元1964年9月発行いけばな

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