テキスト1964
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羹苓おもしろい味わい、そのもののもつおもむき、感興を起すもの、その状態。美を鑑賞理解すること。趣味と云う言葉はこんな意味のものである。私達の感ずる、或は心の中にもつ趣味は種類が多い。深く浅く、狭く広い範囲があって、人に依って様々であると云える。茶を楽しむもの、花を趣味とするも、映画やダンスに興ずるもの、或は美術を鑑賞し、舞台芸術を楽しむ。茶を楽しむことも、これらの趣味の一っ.てあって、茶を楽しむため丈ホ趣味の理解2 には茶道の心と、その礼法形式を知ることが大切.てあり、そこに趣味の本当の理解が生れて来る。茶遺に必要な、場所(茶室)も道具も、装飾も、いけばなも、茶の趣味の中で選択され、茶のために好ましい、ふんい気をつくために選択されるものである。多忙な時間のうちに、少時間の茶室を楽しむ、と云うところに茶道の本質的なよさがあるの.てあって、従って、その場所は茶のために、そのふんい気に調和をつくるために、種々な工夫をする。静かな落着き、心の安らぎを楽しむ時間と場所、それが私達の望む茶てあろう。必要以上にわづらわしい虚礼や虚飾や、必要以上の無駄な形式は望ましいもの.てわない。茶の趣味の中にあるいけばなは、花ーこれを茶の花と云う。いわゆる茶花てある。まつ、茶の趣味を理解し、それによく調和する花を活ける。或は趣味の深い花、茶室の空気を和らげる様な味わいの花、小量ながら美しい色とうるおいをもつ花、茶室の単なる装飾てはなくて、かけ軸についで大切なのは茶花である。茶室の中の重要な協和音とも云える。従って、茶花は茶の趣味をよく理解してこそ、活けられるもので、また、その本当の心を理解すれば、特に茶花と云って特別に難かしく考える必要もない。要は、どんな花でも茶の趣味に調和すればよいのだから。茶は、静けさ、まろやかさ、ない、のどか、忘我の境地、それが茶ごやかなふんい気、落着のある味わ道の尊敬すべき境地であろう。そして、その境地に達するためには、茶道を習うことがその第一歩てある。茶道の礼法を知り、その形式を理解して、やがてはその真実の境地に至ることになる訳.てある。私の父の時代に松本慶仙と云う師範の人があった。花道.ては当流の最高の人てあったが、人格の高い上品な趣味の人であったが、本職は茶道の指物師てその道の名手であった。(大正天皇御即位式の際に、京都御所の黒木灯籠を調製)この様に―つの適に撤した人であったが、私が京都三条のお宅を訪問したときに、いつも職場の道具や細工ものの一ばいに並んでいる作業場て、いろいろ雑談をし乍ら、本当に自然に盆だての茶を頂くことが常てあった。忙しい中の静かな茶。全く好ましいふんい気であった。このごろ、私は狂言のお稽古に茂山先生のお宅に行く。一番のおけい古がすんてほっとした時、いつもお薄を一服とおすすめ頂いて、いろいろお話を伺いながらお茶をのむ。これは―つの美しい還境の中.て味う茶であり、単なる茶の味わいてはない。茶のふんい気と云うものは、それ程、還境と心が大切である―つの例であると思っている。形式に硬ばらない茶道、これも茶道の中の重要なポイント.てあろう。俳句、俳諧の形式の中に季題(きだい)季語(きご)と云う言葉があ2 る。春夏秋冬の季節を表現するために、あらかじめ特にその季節の言葉として定めたものであって、例えば鶯を春、金魚を夏とする類てある。私達のいけばなては、その季節に現実に存在する花材を、その季節の花として活ける訳て、六月のテッポウユリを十二月に活け、九月のりんどうを六月に活け、八月の夏の盛りに秋の大輪菊を活ける。五月のバラを一月に温室咲のものを活ける。したがって季節にこだわろこともなく、また、春のはじめにかきつばたの早咲を賞美したり、五月にささ百合の初花を楽しむ心をももつ訳てある。十月につばきの秋咲きを活けて、季節のうつり変りを感ずること、水仙の早咲や、紅葉の木を見て秋を感ずるごとは当然あり得る。しかし、それは、自然に順応するだけであって、そこに何等の約束も、とりきめも必要としない。全く自由である。季節......、ぺ•R

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